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中国旅行記 西安編その2。

【9月28日 金曜日 西安 小雨】

結局韓国の彼と午前3時まで話し込み、そのまま部屋に彼を泊めて、この日は朝8時頃に起床。

近くのレストランで彼と一緒に朝食をとることにしました。
僕たちがこの日は兵馬俑や始皇帝陵に行くと言うと、彼は前日に行ってきたらしく、バス停とかいろいろ親切に教えてくれました。
彼はこの日は例のネットで知り合った女性と華山(洛陽と西安の間にある)に行くとのこと。
彼に別れを告げ、僕たちはまず、目星をつけていたもうひとつのユース(緑島ユースの系列店)へ移動しました。

緑島ユースは西安の城壁内、北東に位置していて、駅直近でした。
対して今度のユースは城壁内南。南門にほぼ隣接し、繁華街に近いところに位置します。

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城壁に面していました。

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外観はこんな感じ。

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中の様子は伝統的な中国の家屋といった感じで、雰囲気ありました。

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夜はこんな感じでね。

ここのフロントのおじいちゃんがすごくいい人だったなあ。

宿をとって、バスターミナルは北の駅の方にあるからまた戻り、華清池、始皇帝陵、兵馬俑の三大観光地をまわるバスに乗り込みます。


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城門から出たバスから。
雨が降っていて、写り悪いですが。
城壁に囲まれた街ってやっぱり雰囲気ありますね。

城壁の外は田舎なのかなと思ってたけど、どうやら違って、むしろ城壁の外のが開けてる。

途中高速道路らしきところを通りながら、どのくらいかな、1時間30分ほどかな。
華清池を過ぎ、始皇帝陵がバスの窓から見えてきて、やがて兵馬俑に到着。
さすがは兵馬俑。駐車場からして広い。

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そんな駐車場で、始皇帝御自らがお出迎え。

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入場ゲート。
チケットを買ってこのゲートを通るんですが、ここ、自動改札になってて、慣れない中国人たちはおろおろ。
自動改札という文明の力が逆効果。渋滞になってしまってました。

兵馬俑のメインはもちろん1号抗、2号抗、3号抗と分けられた発掘現場。
特に有名で誰もが観たことがあるのは1号抗内部。

楽しみは後にとっておいて、とりあえず併設されている博物館へ。
出土品のレプリカやらがずらり。

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こうしたレプリカ展示室、兵馬俑博物館の歴史、そして中国っぽいのが、ここを訪れた共産党の偉人たちについての展示。

博物館自体はとても綺麗でした。
まああれだけ高い入場料(80元くらいだったかな)をとってるんだからそりゃ当然だ。


で、いよいよ1号抗へ。

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でっかい体育館みたいなところに、なんかもうこんな。
整然と並んだ近衛兵。
秦代の軍隊がそのまま目の前にいる。。。
これってSFですよ。

しかしこの感じ、何か見たことあるなー。

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んー??

こ、これは

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まるで

UBC-jam

みたい。

UBC-jamとは、僕が以前所属していた、大学のサークルで、毎年学園祭で無料ライブイベントを企画運営しています。
今年も後輩たちが頑張っているので、興味を持ったら行ってみましょう。
以下詳細。

イベント名 UBC-jam vol.21

日程   2007年11月3日(土)
      開場 14:00  開演 15:00
      終了時刻は未定ですが、例年19:00頃です。

場所   早稲田大学戸山キャンパス内 記念会堂
      162-8644 新宿区戸山1-24-1

アクセス ◇JR山手線 (高田馬場駅 徒歩20分)
      ◇西武新宿線 (高田馬場駅 徒歩20分)
      ◇東京メトロ東西線 (早稲田駅 徒歩3分)
      ◇都営バス(高田馬場駅 - 早大正門、馬場下町下車徒歩1分)

出演 SCOOBIE DO
    SPECIAL OTHERS
    ホフディラン
    HALCALI
    SOIL"&"PIMP"SESSIONS 
    (アクト順ではありません)

形式 入場無料のライブイベント


11月3日、4日に行われる早稲田祭の中でのイベントです。
これらアーティストのライブが無料で観られるので、もし興味があったらいかがでしょうか。
このUBC-jamだけではなく、当日は早稲田祭ということでいろんな出し物がいろんなとこでやってるのでそれを見て回るのも面白いかも。

早稲田大学UBC ホームページ
早稲田祭2007 ホームページ


うまーく宣伝してあげたところで(このブログの宣伝効果なんて甚だ疑問)、兵馬俑に戻ります。


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整然と並んだこの兵隊たちは全員、東を向いています。
というのも、秦は中国の西側(益州あたり)で勃興し全土を統一して行ったのですが、東側にまだ敵が残っていたため、その敵国を警戒しているのだそうです。

兵馬俑はこの辺りの農夫が井戸を掘ろうとした際、2、3mほど掘ったところで妙な陶器の破片にあたり、それを考古学者が鑑定し、発掘したところ、見つかったというのは有名な話で、「史記」などの記述を照らし合わせて、どうやらこれが始皇帝の死後の近衛兵隊なのだ、ということになったそうです。
それが1974年のことだからまだたった33年前の話なんですよね。
それまで2200年くらいずーーーーっと土の下にいてその上は農村になっていたんだから凄い。
ちなみにこの、兵馬俑を掘り当てた農夫、現在、この博物館の名誉副館長になっているそうです。それもすごい話だ。

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発掘されただけでも約7000体という兵士たちはその顔が一人一人違う顔を持っているというのも有名な話。
そしてリアル。
今の中国人にそっくりな人たちもいれば、地域柄、少し西域を思わせるような顔立ちのものもいる。
それぞれ本物の兵士を実際にスケッチしながら造られたという話もあるけど、頷ける。
彼らの平均身長は180cmと現在の我々よりも大きい。
これはさすがに少しだけ誇張して造ってあるのだろうか。はたまた秦の兵士は本当にそれだけ背が高かったのか。
多分前者なんだろうなあ。
今の感覚だったらそんなちょっとだけ大きくしてなんの意味があるの??と思うけど、おそらく当時の人々の平均身長からすればかなり大きく造ってあるはず。当時の人からみれば180cmという身長だけでも随分威圧感があったんじゃないか。

この兵馬俑が見つかる前から、この辺りの農村では数々の兵馬俑を思わせる言い伝えが残っているそうで、例えば、現在の1号抗付近は何故か地下水がすぐに枯れてしまうから、地下に怪物が棲んでいるんだとか、このあたりは明代の末から清代の初めにかけては墓地だったことがあって、そのころ地下から怪物が出たという話なんてことが挙げられる。

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兵馬俑は、全部が全部きちんとした姿で発見されるわけではなく、ほとんどがこんな感じでぐちゃぐちゃになって見つかるそうです。
兵馬俑を埋める際、兵隊の横の土壁の上に丸太を渡してその上にゴザを敷いて土をかぶせたんだそうなんだけど、この丸太がいけなかったんですな(といってもしょうがないけど)。木だから腐ってしまってその上の土がドサーっと。
兵隊圧死。
ということになって上の写真のようになって発掘されるということです。

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1号抗の一番奥には現在修復中の兵馬俑たちがいました。
1号抗内では現在も発掘調査が行われているようです。
このあと紹介する2号抗、3号抗では試掘といって一度掘り起こし、調査を終えたら保護の為にまた埋め戻すという作業をしているようです。

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兵馬俑たちは現在でこそこのような姿ですが、本来はカラフルに彩色が施されてありました。そしてそれは発掘された当初はほとんど残っていたのです。
しかし2200年もの間、土の中にいた兵馬俑が突然外界の光を浴びることによってみるみるうちに彩色は剥げて、このような姿になっているとのこと。
兵馬俑はこの1号抗、2号抗、3号抗以外にも始皇帝陵を中心としてこのあたり一帯に確実に存在するのですが、発掘することによって上記のようなダメージを与えてしまうため、確実な保護技術が確立するまでは掘り起こさない方針をとっています。

1号抗から出て、2号抗、3号抗、と見学。
1号抗以外は写真撮影厳禁、てことを「地球の歩き方」や他のブログなんかでみたんだけど、みんな撮りまくりでした。

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2、3号抗はこのようにほとんどが土に埋もれた俑でした。
整然と並んでるものもカッコイイけれど、こちらのほうが2200年という時の流れを感じることが出来るのも事実。

さて兵馬俑を後にして、始皇帝陵へ。

バスで行くか歩いて行くか迷った挙げ句、歩いて行くことに。
兵馬俑ー始皇帝陵間およそ1.2kmということで歩けない距離じゃないけど遠かった。
バスで通ったとき、こんな遠かったっけ?
道ばたではずーーーーっとザクロを売っている人たちがいた。
全員ザクロ。
他の店と差別化をはかる気がない。
売ってる人が綺麗なお姉さんなら買うのにね。とか言ってた矢先、おそらく部活に行く女子高生っぽい女の子を発見。服はおそらく学校のジャージ。髪は黒くて長くシャンプーのCMみたい。アジエンスとかのCMに出てそう。

今回の旅での美人さんNo.1でした。

しかし本当、西安は美人が多いです。

元気になった僕らはその後も歩きつづけ、とうとう始皇帝陵が見えてきました。

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始皇帝陵に入る時、早稲田大学の学生証で学割を試してみたら、なんと学割に成功しました。
ちなみに北京の紫禁城では失敗しています。
どうやら窓口の人によるっぽいので学生ならばチケットを買う時とりあえず学生証を見せることをオススメします。半額になるのは大きい。

さて。
始皇帝陵。

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お山に登れるんですが、なにも考えずに登ってしまえば、なんの変哲も無い山です。(案外高いけど)
しかし、始皇帝陵はそんなただの山なんかじゃない。

始皇帝は13歳で即位してから驪山で自分の墓の修築を始め、全国統一を果たした後はさらに各地から10万人以上を徴用して、50歳で死去するまで墓の修築を37年間続けたということですから、この陵墓はなんと37年もの歳月がかかっているんです。
けど、こんな山造るのにそんな時間かかんの?と思うけれど、もちろんこんな山のためにそんな歳月をかけたりはしません。
地下宮殿です。

始皇帝陵内部の仕切りと構造は秦の都咸陽(西安から少し西へ行ったところにある)とそっくりだそうで、咸陽を真似て建造されたものだといいます。
始皇帝陵の本体と周辺の副葬地区は66.25平方kmにもなるというからその大きさは圧倒的。それはなんと現在の西安の都市面積の2倍近くになるのです。

そんなものがこの地下にあるわけですよ。
さっきの兵馬俑もその一環に過ぎない。

そんな地下宮殿の内部の様子は司馬遷の「史記」が詳しい。
その内容を要約すると


珍宝が沢山置かれている。
窃盗を防止するための自動発射できる弓の仕掛けがある。
墓室の天井には星辰に当たる宝石と真珠が飾られている。
地面には中国の五大名山など地形の模型が置かれ、その溝には河川と海洋を象徴する水銀が流れており、黄金で作った雉が浮かんでいる。
墓室には鯨の油を燃料とする「長明灯」が長年燃え続けている。
墓室の周りは大規模な兵馬俑の群れに囲まれている。


これらのことは長年ただの伝説と思われていて、司馬遷もただのホラ吹きくらいにしか思われてなかったようですが、実際に兵馬俑が出てきたから大変。
「史記」の記述が実は本当なのかも知れない、と思われるようになって、とうとう地上からの調査も行われました。

すると多量のまとまった水銀と、蒸発によって飛散した水銀、さらに地下宮殿を思わせる広大な空間が確かに存在するということがわかったのです。
ますます「史記」の信憑性が増しました。

さらに、盗掘をしたあともあったようですが地下宮殿には達していないということで、内部はほぼ完璧に保存されていることが予想されています。

始皇帝が死ぬと、ここに葬られましたが、地下宮殿内部の機密の漏洩防止のために、墓を造った職人たちも埋められてしまいました。


「漢書」と「水経注」という書物には始皇帝陵は、項羽によって暴かれ、消失したと伝えられていますが、「史記」にはそんな記述は存在しません。
「史記」は始皇帝陵建設後約100年後に編まれてあり、「漢書」はおよそ300年後、「水経注」にいたっては600年も後のことなのでその信憑性は疑われています。
僕の予想では、「漢書」で漢建国の祖、劉邦の敵項羽をことさらに暴虐に見せるために作った話で、「水経注」はその「漢書」を基に話を構成したんじゃないかな。どうだろう。

始皇帝陵は、兵馬俑と同じ理由(発掘後の保存技術が未発達)で内部の発掘はできていません。
外側から徐々に徐々に始皇帝陵本体に近づくように調査は進められてはいるらしいけれど。
いつか、保存技術が確立して、発掘がなされた時、僕たちはまた一つ新たな驚きに包まれるんじゃないでしょうか。楽しみです。生きてるうちに見たいですね。。。


始皇帝陵を後にして、今度は華清池へ。
ここは唐の玄宗とその后、楊貴妃がしばしば逗留した温泉地。
三千年前の西周時代からの温泉の湯元があります。そのため、ここは歴代の帝王御用達の温泉なのです。だから玄宗たち以外にも多くの要人たちが愛してきた温泉なのですが、そこは絶世の美女、世界三大美人の一人、楊貴妃です。
彼女が入ったとあっては、そりゃ有名にもなります。
また華清池という名前も、玄宗が楊貴妃のために華池宮を建造したことに始まります。
またそんな玄宗と楊貴妃の恋愛を題材にした白居易の「長恨歌」の舞台としても有名。

ということで、始皇帝陵からバスに乗ります。

バスは客がほとんどいなくてガラガラでした。
女の車掌さんが僕たちに話しかけてきました。
当然分からないので、筆談をお願いしました。
車掌「日本人か?」
僕「是」
車掌「学生か?」
僕「是」
車掌「兵馬俑や始皇帝陵には行ったのか」
僕「是」
車掌「ちゃんと学割にしてもらったか」
僕「是」
車掌「華清池でも学割にしてもらいなさい」

こんな感じで親切に教えてくれました。いい人。

ということで華清池でも学割を使用。
あっさり学割になりました。
魔法のカードだな。卒業時、返したくねー。


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入り口をくぐってすぐにあるこの建物の中は博物館になっています。

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中には、昔の姿を再現する模型があったり

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蝋人形が置いてあったりと、なかなか楽しめる内容でした。

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楊貴妃。

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いまも湧きつづける温泉に、楊貴妃にあやかって群がる。
このお湯を触るだけですがお金をとられます。
なので僕たちはスルー。

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唐代の風呂の遺構。
こういう風に完璧に出てくるんですねえ。素晴らしい。

ここで当時の偉い人たちが風呂に入っていた様子が容易に思い浮かびます。

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楊貴妃専用のバスタブ。
海藻の形を模していて、当時は青色をしていたとか。
楊貴妃専用なわけですから、当然楊貴妃しか入ってない。ひょえー。
実際に楊貴妃が入ってたんだー。ひょえー。

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そのお隣の建物には、玄宗専用の浴槽が。
皇帝専用とあって広い。
いいですね、この武骨な形が。楊貴妃専用の方は、すごく女性っぽいフォルムだったのに対して、こちらは男の風呂、って感じです。

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排水用の溝です。
この辺の構造もしっかり残っていてすごい。
こんなのが1300年くらい前にあったんですからね。さすがは唐。

温泉水滑らかにして凝脂 を洗ふ
侍児扶け起こすに矯として 力無し
始めて是れ新たに恩沢を承くるの時
雲鬢花顔金歩揺
芙蓉の帳暖かにし て春宵を度る
春宵短きを苦しみ日高くして起く
此れより君主早朝せず
歓を承け宴に侍して閑暇無く
春は春遊に従ひ夜は夜を専らにす
後宮の佳麗三千人
三千の寵愛一身に在り
金屋粧ひ成って嬌として夜に侍し
玉楼宴罷んで酔うて春に和す
憐むべし光彩の門戸に生ずるを
遂に天下の父母の心をして
男を生むを重んぜず女を生むを重んぜしむ


驪宮高き処青雲に入り
仙楽風に飄りて処処に聞こゆ
緩歌縵舞糸竹を凝らし
尽日君主看れども足らず
漁陽のヘイ鼓地を動かして来り
驚破す霓裳羽衣の曲



長恨歌の内、この華清池を歌った部分の書き下し文です。

さてこの華清池。
そんなロマンスばかりの場所ではありません。

中国現代史において、大きな転換となった西安事件の舞台でもあるのです。

1936年12月、楊虎城の西北軍と張学良の東北軍による共産党討伐が一向に進んでいないことに業を煮やし、この二人の将軍を叱咤するため、蒋介石は南京を出発して西安に来ました。
蒋介石は華清宮の五間庁に泊まって、12月12日朝5時、突然の銃声で目を覚まし、着替えもできず、裸のままで窓を乗り越え、山腹に逃走。山はらの大きな石の隙間に隠れているところを張学良の護衛兵が発見して捕らえ、西安市内に幽閉しました。
張学良と楊虎城はさっそく延安にいる毛沢東に電報を打ち、代表団の派遣を要請。毛沢東は周恩来を西安に派遣しました。周恩来は何度も蒋介石と交渉し、その結果第二次「国共合作」が実現したのです。

というのがこの西安事件の概要。

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蒋介石が銃撃を受けた五間庁は現在も保存されていて、銃撃を受けた朝のまま窓ガラスまで保存されてあります。
いたるところに銃痕が。。


華清池の裏にある驪山にはロープウェイで登れるのですが、時間が遅くなりすでに営業終了。
残念だけど、バスを待って、西安市街へと戻りました。



さて、市街に戻って、まずは誘われるがまま、晩ご飯。

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その後、適当にブラブラして、夜市という、市場を見学。
けっこうゲテモノがいっぱい焼かれてました。

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陜西省の役所(?)なんかも見学。
そろそろ国慶節ムードで、紅い横断幕なんかも張られてました。

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ランドマークである鐘楼へ。

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鐘楼。
ここには登ることが出来るので登ってみました。

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中では観光者向けのショーもやってました。

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南門の方を臨む夜景。

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ムスリム通りというところがあってそこにも行ってみた。

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ムスリムというだけあってイスラム教徒っぽい人もいたけど、ちょっと栄えた商店街みたいな感じで楽しかった。

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ムスリム通りにつながる門。


夜の散策を終えて宿に帰ったのはもう22時を回ってました。
ドミトリーにはいつの間にか他のお客さんがいて寝てたので起こさないように神経を使いつつ、就寝。

次の日は三蔵法師玄奘ゆかりの大雁塔と陜西歴史博物館。そして襄樊へ向かいます。
それは次の更新で。

ではまた。
by jai-guru-deva | 2007-10-24 02:51 | 今日知る旅行
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