信長の野望ー革新ー

信長の野望の新タイトルである。
小6の時から始めた、自称「信長の野望」フリークな僕ですが、今作はここ数作の中でもかなり楽しめるデキでした。

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まずは「信長の野望」についておさらいしておきましょう。
光栄(現・コーエー)が発表した「信長の野望」に端を発する。
歴史シミュレーションという概念もなかったであろう当時としては画期的すぎるほどのゲームシステム。
一作目は史実で織田信長が統一した近畿と、信長と覇を争った上杉家、武田家、北条家のあった関東甲信越のみのマップで、中国地方も東北も四国も九州もない。
城単位ではなく国単位での国取り物語が展開される。
かなりシンプルなゲームであり、武将という概念すらない。
織田家なら信長だけ、武田家なら信玄だけ、である。
「人は城、人は石垣、人は掘」
なんて言葉は通用しない。
完全なワンマン国家で国政を動かすわけだ。
ちなみに大名の能力値はなんと、ルーレットで決まる。
アバウトすぎやしませんか、それ。

そんな「信長の野望」の歴史をまとめるのも面白いが、膨大な量になるだろうからまた今度にします。

信長シリーズの最新作「革新」は、将星録、烈風伝のように日本地図を一枚絵で表現。ただし「革新」では「嵐世記」以降の3D技術を結集させ、3D日本を描き出すことに成功している(コーエーの3D技術は三国無双などで磨いたとは言ってもまだまだ粗いが)。内政(町づくり)も戦争も一画面でできてしまう。まるでシムシティをやっているようだ。
そしてターン制をやめ、リアルタイム制を採用しているから、大忙しである。
僕が他国に侵攻の軍を出せば、ここぞとばかりに敵対するほかの隣国から軍勢がせめよせる。戦争中にも外交の使者が来たり、内政中に攻められると内政に従事する武将を城へ帰還させたり。
これほど、戦国大名との一体感を持てたのはシリーズ初である。とにかく忙しい。
とっさの判断で、お家滅亡と相成り得るわけである。

そんな「信長の野望ー革新ー」
僕は、地元の戦国大名、宇喜多直家で始めることにした。

プレイレポートの前に宇喜多直家公の史実伝記を。一般的には息子、秀家の方が有名だが、直家はハンパない人物だったことが以下を参照くださればお分かりになるはずである。

【宇喜多直家】

享禄2年(1529)、備前国邑久郡豊原荘(現・岡山県瀬戸内市邑久町)の砥石城に生まれる。
浦上家の家臣。
6歳のとき、有能な祖父の能家(よしいえ)が同僚の高取山城主・島村貫阿弥に、その才能を妬まれ謀殺を謀り、攻め込んでくる。能家は息子と孫ら一族郎党の命を保証することを約束させ自害。直家は父とともに城を脱出、備後鞆・備前福岡(僕の実家があるところです)・同笠加を転々とする。

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(木像は光珍寺が所蔵していたが、戦災で焼失)

直家の父、興家(おきいえ)は無能で好色な人物だったようで、僕の実家近くにある、日蓮宗妙興寺(司馬遼太郎「播磨灘物語」冒頭にも登場する。現住職は東大卒だったと思う)近辺の豪商阿部家に居候するうち、そこの娘とデキてしまい、息子と娘をもうける。
この息子が後の忠家であり、直家の異母弟である。
興家は何の野望もなく、そのまま備前福岡の地で病となり、死亡。妙興寺に葬られた。
その間、直家は鼻水をたらした馬鹿面のまま遊びまくり、近所の子に虐められ、と散々だが、これは宇喜多全滅を望むものの目をくらますため、直家がわざと馬鹿息子を演じていたと言われている。証拠に、浦上家仕官後の直家の暗躍ぶりたるや、凄まじい。

天文12年(1543)、旧主家である浦上宗景に出仕する。同年初陣で功を挙げ、翌年には小城塞・乙子城の城主に抜擢(わずか15歳!!)され、数々の戦功を挙げる。
永禄2年(1559)、自らの妻の父、つまり舅の中山信正を謀殺して居城と領地を奪い、祖父の旧領地も奪回する。同時に仇敵・島村貫阿弥を謀殺。以後、亀山城を居城とし領地の拡張に努め、永禄4年(1561)には龍乃口城を攻略。


永禄9年(1566)、美作・備前進攻をうかがう備中松山城主・三村家親を暗殺。翌年、2万の兵力で備前に攻め入った家親の子・元親をわずか兵5千をもって撃退(明禅寺合戦)する。
翌年には備前国西部の有力者・松田氏を滅ぼして主家を凌ぐ勢力となり、元亀元年(1570)、岡山平野制圧を意図し、好適地の石山の城を奪うため同城主・金光宗高を謀殺。大改修を施して天正元年(1573)入城する。この際、「丘山」の地名を「岡山」と変え、自分の育った備前福岡から多くの豪商たち(当時の備前福岡の反映は時宗の「一遍上人絵伝」に詳しい)を岡山へと移転させた。
そのため、現在も岡山の街には、備前福岡と同じ地名がついているところがある。


力をつけた直家はついに主家・浦上宗景に対し、謀反。天正5年(1577)に追放する(宗景は行方不明)。その領地を収めた直家は備前国・美作国南部に播磨国西部までを領する有力戦国大名に成長を遂げた。
その後、織田信長の命で中国地方進攻に乗り出した羽柴秀吉に対抗して一度は毛利と結ぶが、結局信長に帰属。毛利勢と激しい攻防を繰り返し、その最中の天正9年(1581)、病により生涯を終える。権謀術数に生きた直家を「戦国の梟雄(きょうゆう)」と呼ぶのは以上のような経略からである。
その凄まじい、まさに血塗られた戦国時代の暗い影は弟、忠家でさえ気の休まることはなかったと、ある書物に伝えられている。

「兄上の前に出る時は冷や汗がとまりませんでした」
とは忠家の言だ。
しかしそんな直家も晩年は気が弱くなり息子秀家を過保護なまでに溺愛し、重臣たちはもとより、盟友とはいえ敵国である秀吉にまで
「はちろう(秀家の幼名)をおたのみ申す。くれぐれもおたのみ申す。」
と遺言している。


これは秀吉にも言えることだが、裸一貫からときに権謀術数を用いてのし上がった者は、おそらく第二の自分が現れることを最も心配するようだ。
秀吉は「兵農分離」「刀狩り」を行い農民から武士になる道を閉ざしたし、最期は息子秀頼のことを徳川家康に託している。
「ひでよりのこと、かさねがさねおたのみもうしあげ候」
これが天下人秀吉の遺言である。なんとも女々しい。

さて、そんな直家の愛息子秀家の半生も見てみよう。

【宇喜多秀家】

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秀家は天正9年(1581)、父の病没により9歳で家督を相続。翌年毛利征伐のため出陣してきた羽柴秀吉にその利発さと顔立ちを気に入られ、養子扱いの厚遇を受ける。
秀家の顔は肖像の通り、目鼻立ちの通った色白の美男子と言える。

「本能寺の変」ののち、秀吉の天下取りの戦いに積極的に参戦、数々の戦功を挙げ、天下統一後は備前国・美作国・播磨国西部と備中国東半の57万4千石を有する大大名に躍進した。天正17年(1589)には、前田利家の娘で秀吉の養女となった豪姫を正室に迎えている。文禄の役(第一次朝鮮出兵)では元帥を務め、戦後その功により中納言に昇進(!!)。さらに、徳川家康、前田利家らとともに豊臣政権の最高機関である五大老に大抜擢。名実ともに実力者となった。

この間の天正18年(1590)、自らの勢力に見合う居城の築城に着手。築城の名手でもあった秀吉の指導を受け、父・直家が居城とした石山の城の横の丘陵「岡山」に本丸を構えることとした。同時に、近世的な城郭構想に基づき城下町の建設にも着手、商工業者を城下に集め、現在の岡山の基礎を築いた。天守閣は慶長2年(1597)に完成。この城普請は豊臣秀吉の大坂城、毛利輝元の広島城とともに大型近世城郭の先駆(姫路城はまだない)をなし、当時としては全国級の大型建造物となった。
その黒い壁の佇まいから現在も「烏城」と呼ばれ親しまれている。

さて秀吉没後も徳川家康らと政務の中枢にあったが、家臣団の統率に失敗し、慶長4年(1599)家中騒動が勃発、歴戦の重臣達に離反されることになる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍の主力となって奮戦するが壊滅・敗走、薩摩の島津家へ逃れた。3年後、幕府に出頭。出頭したことから死罪を免れて二人の子息、近侍とともに八丈島へ配流された。八丈島でなんと約50年間を過ごし、明暦元年(1655)、83歳で没した。
配所の宇喜多一族には、豪姫の実家・前田家や旧家臣・花房家から援助が続けられたという。


これが宇喜多2代の系譜であるが、僕が操る直家は果たして天下を穫れるのでしょうか。
長くなったので以下に続きます。




はじまりは信長が家督を継いだ1551年。
このころ宇喜多家は大名ではなく、上で述べた通り浦上家の家来に過ぎないが、当主宗景を強引に隠居させ、直家に家督を継がせる。

【姫路戦線】
1551年、家督を継いだばかりの織田家に今川上洛軍が侵攻。
しかし、信長は奇襲によって今川家当主義元の首を取る(史実より9年も早く桶狭間が起きた)。

そんな風雲急を告げる尾張から遠く離れた備前国の直家は、強国毛利に恭順。
西方に領土を広げることをあきらめ、東へ目を向ける。
播磨を守る赤松家は弱小。
直家の戦術、籠絡、混乱、同士討ちを駆使し、姫路城を手にする。
この際、黒田職隆を配下におさめる。黒田職隆自身政治手腕にすぐれ、使えるヤツだが、なによりもまだ元服前の息子、黒田官兵衛が魅力である。

案の定、二年後官兵衛が仕官。すぐさま領地を加増し、軍師として招き入れる。


【山陰攻略戦】
姫路を手に入れ、本拠として数年。内政に励んでいるうちに他の勢力も力を蓄え、一気に攻勢に出始めた。
今川から独立した徳川家康は織田信長と手を組み東海で武田と覇を争う。
越後を統一した上杉はさらに北を目指す。
安芸の盟友毛利は九州に侵攻。大内を滅ぼし、大友と激戦を繰り広げる。

宇喜多の東、石山御坊には一大宗教国家、本願寺がいる。一向宗の本願寺を敵に回すは下策、と北を目指す。
美作に支城を築かんとするも鳥取の山名に阻止される。
しかしめげずに二度目の支城建設は成功し、鳥取城攻略の足がかりとするも、鳥取城攻略にはいたらず、引き分けに終わる。
兵力の回復を待ち、第二次鳥取征伐に向かおうとした矢先、毛利方より使者。

「鳥取城を制圧するための軍勢をだしてほしい」

援軍要請である。
ここで断って毛利を敵に回すわけにはいかない。
我々は毛利のために善戦し、山名を滅ぼすも、城は毛利のものに。

鳥取をあきらめ、我々は但馬、八上城を攻めることに。
黒田官兵衛の的確な献策により八上城はたやすく陥落。

ある程度の国力を蓄えることができるようになった。

しかし、他勢力は破竹の勢いで侵攻を続ける。
中でも武田、上杉、北条は三国同盟を結び、みるみる大勢力へと発展。このままでは手がつけられなくなる。
焦りから本願寺の石山御坊を攻めとるも、その直後、織田軍の猛攻に会い敗退。多くの将兵がここで討ち死にを果たす。
織田憎し。

【対毛利戦線】
直家は毛利との同盟起原が切れるのを契機に毛利との関係を白紙に戻す。
時に1562年。
新たに土佐の長宗我部元親と親交を深め、毛利に徐々に敵対していくようになる。
毛利家は大勢力ではあるが、勢力が横に伸び過ぎ、また元盟友の我々に油断してか、中国地方の各城に十分な兵力を残してはいなかった。
東の脅威織田軍は武田軍が迫るため宇喜多に手出しはできない。

直家はこれを好機とみて鳥取城侵攻を決意。

直家と官兵衛の行くところ敵なし。
鳥取、月山富田、吉田郡山と毛利の所領を削って行くのであった。

しかし、宇喜多の旗が山口にとどかんとする時、事件は起きた。
思えばこの時、宇喜多の歯車が狂い始めていてのかもしれない。。。。


つづく!!

1570年頃の宇喜多家並びに他勢力図
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武田、上杉がとにかくすごい。

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by jai-guru-deva | 2006-02-14 05:58 | 今日知るゲーム
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