カテゴリ:今日知る歴史( 4 )

字の話。

中国関連ということで、字(あざな)の話でも。

中国の歴史や宗教、文学なんかを学んでるといつも気になるのが字。
なんとなーく分かるようで分からない字について、今回は調べてまとめてみました。

まず、そもそも字ってなんだ?という方に。

三国志の人たちを例にとってみましょう。

例えば、魏の曹操
曹は姓
操は名
曹さん家の操くん
というわけでこれは分かりやすい。
これに加えて普通中国の人は「字」という通称を持っています。

曹操の場合は孟徳というのが字。

あと有名どころを挙げれば
諸葛亮 孔明(孔明が字)
関羽 雲長(雲長が字)
なんかは聞いたことがあるんじゃないでしょうか。

何故、「名」がありながら「字」という別称を持ったのでしょうか。

「字」を持つ理由

昔の中国では、相手の名前を呼ぶことを意図的に避ける風習があり、名前を呼んでもいいのは主君や親に限られていました。
何故名前を呼ぶのを避けたかというと、呪術的な面が大きかったようです。

ある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができる。

とこんな風に考えられていたんだそうです。
なので、面識の無い人やそんなに親しくない人をフルネームで呼ぶことは大変な失礼にあたるわけです。
まあその他にも、名前がバレると不都合なことが殊に乱世においては多々あったと考えられます。

で、その代わりに呼び名として使われたのが字、というわけです。
名は「諱(いみな)」と呼ばれ、通常は「字」で呼び合っていたわけですね。

この諱、日本では「忌み名」と表記されたりしますね。
まさに忌むべき名なのです。

今では字を知られてない人物がほとんどだったりするんですが、当時は「諱」は知らず、「字」だけ知ってる、とかのが普通だったのかもしれません。

殊に皇帝ともなると、その諱を扱うのには慎重を要したようで、諱に用いられた漢字は生活の上でも一切使用ができなかったようです。
既にある熟語は違う漢字を当ててみたり、また、新しく漢字を作ったり、と結構大変なようです。


「字」の規則性

字について調べてて面白かったのがこれ。
すべての字に規則があるわけではないけれど、いくつかの規則があるにはあります。
最もポピュラーなのが兄弟がいる場合の名付け方。

何人か兄弟がいる場合、長男から順に
「伯」「仲」「叔」「季」
の文字を使うことが多い。
それ以降、つまり五男以降は決まった文字はなく、末っ子だけ
「幼」
が用いられることが多い。

例えば。
呉を建てた孫家の場合(黄字が字)。

孫策伯符(長男)
孫権仲謀(次男)
孫翊叔弼(三男)
孫匡季佐(四男)

このようになってます。
四男に「季」とつけると言いましたが、これには「幼」と同じく、末っ子という意味もあって、漢の高祖・劉邦の字は「季」で、(異母弟はいるものの)劉家の末っ子をあらわしています。

高祖・劉邦の話をすると、彼の生い立ちは、素性の知れない貧困層の出身と言われていて、彼の父、母、兄弟について、ほとんどちゃんとした名前は伝えられていません。
母親の名前は劉慍、父親の名前は劉大公、と一応伝わっているけれどこれ、母親の方は「劉のおばちゃん」という意味で、父親は「劉のおじちゃん」くらいの意味でしかないのです。
劉邦の兄は「劉伯」と伝えられていますが、これこそ、上記の字の例のまんまで、「劉家の長兄」という意味にしかなってなくて名前とは言えませんね。
劉邦の「邦」自体も、もともとの意味は「アニキ」くらいなもんで劉邦は「劉のアニキ」とか「劉の旦那」とかそういった感じらしい。
劉邦は、町のゴロツキの親分みたいなものだったから、そのときの呼び名がそのまま記録されたのでしょう。
上で書いた、諱の話につながりますが、「邦」には「くに」という訓があるように、国を意味してもいます。
劉邦が皇帝になってからは、漢代を通して諱である「邦」の字が使えず、以降「国」という字が一般化した、というのも面白い話として挙げられます。

ちょっと脱線しました。

この字の規則からもう一つ面白いものが見えてきます。

長男を表す「伯」
次男を表す「仲」

これ、実力伯仲の語源なんですって。
伯と仲とはつまり長男と次男。
その二者はそんなに歳も離れていないし、才能もそんなに変わらない、実力に差がないというのが元になっているようです。


この他にも、兄弟の字に関する規則性はあります。
兄弟で共通の文字を使うというのがそれ。

例えば。
魏で着々と実力を着け、最終的に魏を滅ぼし、晋を起こして三国をまとめて天下統一を成し遂げた司馬氏。
その祖ともいえる、司馬懿の兄弟を例にとってみましょう。

司馬懿は8人兄弟で、兄弟の字にみんな「達」をつけたことから「司馬八達」と呼ばれました(黄字が字)。

司馬朗 伯達
司馬懿 仲達 
司馬孚 叔達
司馬馗 季達
司馬恂 顕達
司馬進 恵達
司馬通 雅達
司馬敏 幼達

このように。
兄弟で同じ字を共有し、長男から四男まで、伯・仲・叔・季、を使い、最後の末っ子に、幼を使う。
例としてこれほどいいものは無いですね。非常に綺麗な字です。

また、同じように、蜀の馬良(字は季達)・馬謖(字は幼達)は五人兄弟で、「常」の字を共有していることから「馬氏の五常」と呼ばれたりしています。
馬兄弟はみんな優秀の誉れが高かったらしいんですが、三国志には馬良、馬謖以外の名前は伝わってません。でも字から、馬良が四男で馬謖が五男、というのが見えてくるんです。

また、馬良は若い頃から何故だか眉が白く、さらに能力もずば抜けていたため、
「馬氏五常の白眉もっとも良し」
と評されていて、これが
優れた人物を指す白眉のルーツなわけです。
さらに、馬謖は、才気走るところがあり、諸葛亮に後事を託されるほどに信頼されていたが、ある時、諸葛亮の命令を破って大事な戦争に負けてしまいました(街亭の戦い)。
それで、諸葛亮は軍規をないがしろにしないために、泣く泣く馬謖を斬罪に処しました。
これが「泣いて馬謖を斬る」
の故事というわけです。まあこれらは有名ですが。
三国志がルーツの故事成語っていっぱいあって、それだけ何百年も、多くの人々に愛されてる物語なんだなあ、と感じます。


その他の規則

さて、そうは言うものの、こんな規則にあてはまらない人たちも数多くいます。
そんな人たちはどういうきまりに応じてつけているのか、あるいは無秩序につけているのか。

そのどちらもあるようです。
一般的なのが
諱と関連づける。
ということです。
諱は当然、親なりなんなりがつけるものですが
字は、本人が分別がついて成人する時に自分でつける事が出来るようで。
そのためかどうかは分からないけど、多くの人が、自分の諱を暗示するような字をつけているのです。

諸葛亮 孔明
の場合。
諱の「亮」には「明るい」という意味があります。
字の孔明の「孔」は、「はなはだ」という意味があり、
「明」はそのまんま「明るい」
つまり、孔明という字は「はなはだ明るい」と、諱の「亮」を修飾し、暗示していたわけです。

また、もともと一つの熟語を諱と字に分けた、というのもあります。

曹操 孟徳
の場合。
「孟」というのは「伯」と同じで長男を表す字で、「徳」というのがここでは問題。
これが、諱の「操」と実はセットで、もともと「徳操」という「荀子」にある言葉であった説が濃厚。
これを二つに分けて、諱と字にしたということらしいです。

余談として。「孟」がつく長男として、蜀の馬超(字は孟起)が挙げられます。彼も諱の「超」と字の「起」になにか関連ありそうなニオイがプンプンですね。そもそも意味的にそんなに離れてない気がしますがどうでしょう。

あと、「子」で揃えられた字というのも多く見られます。
超雲(字は子龍)なんかがそうですが、これも曹操とその子供たちを見ればカラクリが分かってきます。

まず
曹操 孟徳
を頭に置いていてください。

で、長男から順に
曹昴 子脩
曹丕 子桓
曹彰 子文
曹植 子建
曹峻 子安

こんな感じで。
曹操は子供が多く、例外も多いんですが、「子」でまとまってる傾向は強い。
こう言った字なの場合、本来ならば、伯、仲。。。という文字を使いたい所なんですが、曹操の字に「孟」というのがありましたよね。
諱においても字においても、親や、その兄弟が使った漢字は避ける(無礼であるから)という暗黙のルールが存在しているため、「伯」と同じく長男を表す「孟」を持つ兄弟を表す字(以下、兄弟字)を避けたために兄弟字が使えず、その代わりに(偉大な)曹操の息子、という意味を込めて「子」の字をつけたようです。

「子」が字につく人はそういう家族の背景が見えてきたりするわけです。


と、ここまで規則に従って「字」を見てきましたが、規則にあてはまらなそうな字も数多くあります。
成人の折に、自分の願いとか願望を字に込めた、というようなこともあったりするんじゃないかなあと考えてみたり。
まだまだ未知な所も多い「字」ですが、ちょっとした規則が分かってると、「字」だけでいろいろ妄想できて楽しいです。
どうでしょうか明日から中国史を学ぶのが楽しくなってくるかも知れませんね。


「字」というのは中国だけではなく、日本にもあるわけで。
それについてはまたの機会に。
いつか書きます。

今回の更新、サクッと終わらすはずだったのに、すごく時間かかった。。。
疲れたー。
[PR]
by jai-guru-deva | 2007-11-30 03:49 | 今日知る歴史

江戸城展。

昨日、後輩の子と両国は江戸東京博物館で行われている「江戸城展」に行ってきました。

江戸城展自体は、ものすごく目新しい!ってことはなかったけど、最後の3Dによる江戸城本丸の再現はすごく良かった。
3Dの技術の進歩はすさまじく(僕も日々最近のゲームで慣れているだろうに、何をいまさらといわれるかもしれないけれど)、これは感動する仕上がりでした。
というのも、数年前までの歴史展での3Dによる再現は見れたもんじゃなかったんです。正直。それがいまや、襖の絵の精緻さ、透かし彫りの再現、物体の質感、これは本当に舌を巻きます。

あと、江戸の町を徳川家康がゼロから創ったみたいな江戸幕府が作り上げたデタラメを廃し、太田道灌のことはもちろんだけれどもともと江戸にいた江戸氏という豪族のことからキチンと説明していたのは良かったです。

江戸東京博物館はなんといっても常設展が面白くて、ちょっとしたテーマパークみたくなっているのだけど、今回も楽しめました。

常設展は

f0013495_20181310.jpg


日本橋を再現したこの橋を渡ることでスタートします。
二階と一階とに分かれていて、二階では常設展の中の企画展、みたいな感じで定期的に展示を変えています。
今回は14代将軍徳川家茂のことを取り上げていました。ちょっとだけマニアックですね。

一階部分は江戸と文明開化以後の東京を戦後まで、建造物なんかを復元したり、ジオラマが一生懸命動いたり、とただ見学するだけではなく、体感できるつくりになっています。

f0013495_20235820.jpg

こういう江戸の町を再現したジオラマもあって、備え付けられている双眼鏡でその町を覗くと、まるで鳥になって俯瞰しているような気分になれて楽しいです。

f0013495_2026142.jpg

これは葛飾北斎のアトリエを再現したもの。なんだか老獪そうなおじいさんが80歳の北斎をイメージした人形。

f0013495_20274892.jpg

これは花街ゾーンにある原寸大の花魁の人形。
実際に見るとものすごく華やかですよ。


f0013495_20302175.jpg

明治東京ゾーンに行けばこんな、日本初の公衆電話のレプリカもあります。
「自働電話」と書かれてあるのもなんか可愛いです。

f0013495_20324385.jpg

こういうレプリカは大概、こうやって中に入ったりして当時の様子を体感できるようになっています。
この電話機は、受話器をあげると説明が聞けるようなつくりになっていました。

f0013495_20342152.jpg

ぼくの後ろにある塔は明治から大正期に浅草にあった「凌雲閣」という塔の模型。
「雲を凌ぐ」という名の通り、地上12階、52メートルの高さを誇り浅草の、というより首都東京のランドマーク的存在だったようです。
日本で初めて電動エレベーターが設置されたりもしたそうですが、故障が頻発してわずか1年間で使用停止になったようです。
そのため、一番上の展望室までは階段で行かなければならず、
かの石川啄木も

浅草の凌雲閣にかけのぼり息がきれしに飛び下りかねき

と詠むほどでした。
彼だけでなく、北原白秋や江戸川乱歩、芥川龍之介といった多くの文豪たちにも愛された凌雲閣でしたが、大正12年の関東大震災で半壊、その後、震災後復興の第一歩として、爆破処理されてしまったとのことです。


f0013495_2051729.jpg

当時の円タク。
タクシーのクセにフォード。
時代を感じます。


このほか、文化住宅とかいろんな建造物たちが迎えてくれる、江戸東京博物館。
特にいま東京に住んでいる人には興味深い展示になっていると思いますよ!
[PR]
by jai-guru-deva | 2007-02-28 20:55 | 今日知る歴史

もののふ診断。

三国志武将占いに続いて、もののふ診断なるものを発見。

戦国時代の武士にたとえるとあなたは誰なのか?

試されるがよかろう。


もののふ診断


ちなみにぼくは上泉信綱。
またしても微妙です。
いや、僕的にはうれしいんですが。

剣豪でござる。
バガボンドにも名前だけ出てきますね。たしか。

今日はこれからあさってまでバイト3連勤。行ってきます。
ぶひー。


我こそは!と思ったら投票
[PR]
by jai-guru-deva | 2005-12-26 20:29 | 今日知る歴史

三国志占い

三国志占いというのが巷でブームだ。
何を隠そう、僕は小6の頃、現在呂布のようになってしまった友人のすすめでクラスの後ろにあった「学級文庫の本」のなかの一冊、子供向けの伝記「三国志」を読んで以降
羅貫仲「三国志演義」
吉川英冶「三国志」
f0013495_1454653.jpg

横山光輝「三国志」
f0013495_1461735.gif

光栄(現・コーエー)シュミレーションゲーム「三国志」
f0013495_1472186.jpg

王欣太「蒼天航路」
f0013495_1474683.jpg

とすすめてきた(自称)三国志原理主義なのだが、そんな僕をこの占いはどう占おうてか。

【説明しよう】
この占いは設問に答えることによって三国志に登場する武将知将有象無象にあてはめてくれるというもの。

さて僕は誰になるのだろう。
曹孟徳か、劉玄徳か、孫仲謀か、はたまた司馬仲達?諸葛孔明?周公謹?いやいや夏候元譲?趙子竜?陸伯言?
などとわくわくしながら設問に答えていく。



【結果】















荀彧文若
f0013495_2155347.jpg

おっとこれは荀子だった。こっちこっち。
f0013495_2161910.jpg







おおおおおお。
案外いい。
ブログのネタ的には非常に微妙だが、個人的には非常にうれしい。

以下荀彧の伝記を載せておこう。長いので興味ない方はすっとばしてくれていいぉ。

【荀彧伝】
荀彧は容姿端麗の偉丈夫と伝わる(ゲームの三国志、蒼天航路の初期はひどい描かれようだったが)。
若い頃に「王佐の才を持つ」と称された。王佐の才とは王を佐けるの意味で、例えば管仲(春秋戦国・斉・桓公の政治家)のように主君に仕えてその人を偉大足らしめる才能のことである。

189年、董卓が劉弁(少帝)を廃して劉協(献帝)を帝位につけた後に孝廉に推挙され、守宮令(宮中の紙・墨・筆などの管理職)となるが、董卓の乱が起こると帰郷し、冀州牧(州の長官)の韓馥の招きを受けて冀州へと避難した。この時に同郷の辛評・郭図なども同道している。

ところが荀彧たちが冀州へ辿り着いたときには袁紹により冀州は奪われていた。袁紹は弟の荀諶が先に袁紹に仕えていた事もあって荀彧を上賓の礼を持って迎えたが、袁紹は大業を成す事の出来ない人物だと見切りをつけて、曹操の下に走った。
荀彧を迎えた曹操は「我が子房(張良・前漢初代皇帝・劉邦の軍師)が来た」と大いに喜んだ。なお辛評・郭図は袁紹にそのまま仕えた。



196年(建安元年)、献帝が長安を脱出し、洛陽に逃れてきていた。荀彧は曹操に対してこれを迎え入れるべきだと献言し、曹操はこれを受け入れて献帝を許に迎え入れた。この功績により曹操は大将軍となり、荀彧は侍中(皇帝の傍にいて下問に答える)・尚書令(文書発布を司る。政治の中核)となった。献帝を迎えたことによって曹操は道義的に大きな後ろ盾を得、後の政戦両略を有利に進めていった。もしこれを行わなかったら曹操は最終的な勝者とはなりえなかっただろうと言われている。

200年(建安五年)の官渡の戦いに於いて、孔融が袁紹軍の強さを言い立てるのに対して荀彧はかつて袁紹軍にいた経験から彼らの弱点を事細かに説明した。実際、官渡の戦いは荀彧が言った通りの経緯を示す。荀彧自身は官渡の戦いに於いて留守を勤めていたが、曹操が戦争途中で弱気になり、引き上げようかと荀彧に諮ってきたことがあった。荀彧はこれに反対して曹操を励ました。また曹操が袁紹に一旦勝利した後で、袁紹との決戦は止めて南の劉表を攻めようかと考えたことがあったが、荀彧は今袁紹をたたいておくべきだと反対した。これらの進言に従い、曹操は袁紹を滅ぼして華北の大部分を勢力圏に置いた。

203年(建安八年)にはそれまでの功績から万歳亭侯に封ぜられ、その後も加増される。

しかしこの頃から曹操は次第に簒奪の意思を明らかにし始め、魏公の地位を欲して九錫を受けようとしていた。儒家でもあった荀彧はこれに猛反対し、曹操との間に亀裂が生じた。

同年、曹操の孫権征伐に従って出征し、曹操への憂慮の余りに陣中で病気を発して死去した。享年50。この死には謎が多く、自殺とも言われる。だが、いずれにしても曹操の野心が荀彧の最大の死因である事は間違いのないところであろう。荀彧の死の翌年に曹操は魏公となった。

この死に関しては諸説あって、もっとも物語的に泣かせる話としては
曹操より突如荀彧へ空箱が送られてくると荀彧はそこに自分の首を入れて差し出せといっているものと解釈し、自殺してしまう、というものである。

しかしこれはおそらく曹操を悪者にして儒者で義を重んじる荀彧を正義とする三国志「演義」的または中国の伝統思想的な解釈であり、創作ではないかとにらんでいるんだけれど、いかがでしょうか。

ながながと失礼しました。
ではみなさんも一度占ってみては?
占ったら誰だったかおしえてくださいな。

三国志占い


やあやあ我こそは☆ブログランキング☆
[PR]
by jai-guru-deva | 2005-12-19 02:43 | 今日知る歴史