<   2006年 02月 ( 15 )   > この月の画像一覧

京の都 二日目後半 ー完結編ー

一日目前半はこちら京の都 一日目。

後半はこちら京の都 一日目 後半。

二日目前半はこちら京の都 二日目。

続きです。これで完結。


【霊山歴史館】

ここは幕末維新に特化した歴史館。
幕末史好きなら死ぬほど燃える場所、いわば聖地です。

以前は西郷隆盛が西南戦争で自刃した際、介錯した刀なんかも置いてありました。

本当は展示物を写真で撮ることは許されないことですが、あーどーしても撮りてえ、自分のモノにしてえ、という欲望にかなわず、とりあえずフラッシュたかなけりゃ品質保存には問題ないだろうと思い、、、、、

撮ってしまいました。
すみません。
今回限りにします。見逃してください。


f0013495_14222427.jpg


新選組といえば、浅葱色に白地の山形の制服、赤に白ぬきの「誠」の隊旗というのが最早おきまりですが、こういう小さな「誠」のお札みたいなものも袖なんかにつけていたようですね。
和服の制服に付けてもいいですが、

f0013495_14264675.jpg


こう、土方さんの洋装なんかにはバッチリきまっていたんではないでしょうか。
うん、絶対カッコイイ!!

新選組の制服についてひとつ言いたいのは、
あれ、ほとんど使っていなかったんですよてこと。
そもそもが、近藤勇の前の局長、芹沢鴨の考案したものだし、芹沢嫌いで、オシャレな土方はむしろ制服を「悪趣味だ」と言って嫌っていて、ほとんど着たためしがないようです。
近藤の方は赤穂四十七士が大好きだったようだから、それを真似た制服は気に入っていたようですが。
ある意味暗殺を稼業としていた新選組の人たちがあんな目立つ服を着て歩くのはやはり、ちょっとおかしい。
昼間、市中警備として出動する時に限っては逆に目立つ服のほうが「新選組だぞ!」って威圧できてよかったかもだけど。
とにかく年がら年中制服でいたというのは誤解のようですよ。

で、制服がどんなのかイメージわかない人のために、一般的な新選組のイメージを描いてみました。

f0013495_12315763.jpg


すごくヘタクソであれなんですが、まあ、なんか、変ですよね。やっぱり、この服。
歌舞伎者かなにかですか?


次はコレ

f0013495_12342554.jpg


画像がぶれているあたり、撮影に対する後ろめたさが垣間みれてはずかしいんですが、これ、近藤勇が実際使用した鎖帷子。
戦闘で受けたであろう、刀傷も存在します。こういうのを着物の下に着込んでいたんですな。
けれど、中には、無防備な浪士を襲うのにこっちだけ鎖帷子などを装備して出向くことに武士道として恥だと思う人もいたらしく、何も装備せずに出動した人もいたんだとか。
天晴れな心意気。それがどれだけ危険なことか、ドラクエで最初に装備するの忘れて冒険に出る危うさをご存知の読者の方なら分かるはずです。


最後にこれ。

f0013495_12394083.jpg


何に使った刀か分かりますか?








実は、これ、幕末史の最大のタブーであり、謎でもある坂本龍馬暗殺時に使用され、実際に龍馬をしとめた脇差なのです。
慶応3年11月15日、見廻組肝煎桂早之助がこの脇差を持って、京都・近江屋の一室で坂本龍馬を斬ったという説が最近最も濃厚とか。
一部、いまだに新選組の仕業と噂されますが、それは明治維新政府などのまいた嘘。
実際は裏で、あの西郷隆盛や桂小五郎、岩倉具視、またこの歴史館に所蔵されてある文献から分かったことですが、幕府を土壇場で裏切った彦根藩の影もちらつくようです。

西郷どんと桂と言えば、龍馬が黒幕でおこなった薩長同盟を結ぶ上での薩摩藩のキーパーソン。
なぜそんなある種倒幕の恩人である龍馬暗殺を謀ったのか?
それは龍馬は徳川家を大政奉還させた上で、新政府の議会にも参加させ、それも議長のような立場を与えようと画策していたからだというのです。龍馬はあくまで徳川家の生き残る道を探っていた。
逆に西郷らは徳川を完全に根絶、とはいかないまでも特権は与えたくない、という考えだったようで、龍馬のことが邪魔になっていったというのです。
新選組や幕府の人間がどこまで龍馬の理想を知っていたかは分かりませんが、実は幕府側からすれば龍馬は生かしておいて損はない人間だったのです。
けれど、見廻組という新選組と同じような幕府の組織が結局西郷らにいいように操られて龍馬を殺しちゃったということはその辺の認識が幕府側はまだ甘かったということなのでしょう。

この刀に関して、また同歴史館収蔵の品はコチラを参考にしてください。
霊山歴史館 館蔵の逸品



歴史館を満足をもって後にした僕たちはせっかく東山に来たのだから、と高台寺に行くことに。


【高台寺】

f0013495_1259589.jpg


周りを竹林に囲まれた石段を登っていくとそれはある。
豊臣秀吉の正室、北政所お禰、通称ねねの菩提寺、高台寺だ。

高台寺の歴史は次の通り。
慶長8年(1603)、北政所は後陽成天皇より、「高台院」の号を勅賜される。 
北政所には兄家定がいた。慶長9年、家定は臨済宗建仁寺の塔頭常光院を改修建立する。家定に触発された北政所は、寺院の建立に向けて動き出したのが始まりで、その名も号にちなんで高台寺と決められた。

f0013495_1353213.jpg

(左に見える白い大きな観音様が霊山観音)

慶長10年、北政所の高台寺建立の動きを知った徳川家康は、酒井忠世・土井利勝を高台寺造営御用掛、京都所司代板倉勝重を普請奉行、堀監物直政を普請掛に任じ、財を惜しまず協力したといわれている。
北政所の存在は、家康にとって非常に大切な存在であったことがうかがわれる。福島正則・加藤清正・浅野長政等の北政所にとって子飼いの大名たちも働いた。

f0013495_136425.jpg

(北政所廟までつづく廻廊は圧巻)

寺町から康徳寺の移転が完了し、伏見城から化粧御殿と前庭(現在の円徳院)の移転が整い、北政所は化粧御殿に移り住むようになる。慶長10年6月28日、北政所58歳の時である。
この地は北政所が76歳で没されるまでお住まいになり、したがって北政所終焉の地となった。明けて慶長11年、鷲峰山高台寺が落慶した。

文章は高台寺ホームページより抜粋、一部改編。


とても雰囲気の良いお寺でした。秘仏である「大随求菩薩」も今の時期(1/14〜3/19)丁度御開帳されていて拝んで来ました。
ちなみに北政所廟には今でも、ねねさんが土葬されたままだとのこと。

ねねと秀吉は、秀吉が天下人になり、ねねも北政所になった後も、夫婦喧嘩は尾張弁丸出しでやっていたようです。
「おみゃー、わしを誰やと思うとるがや」
「おみゃーさんも悪いでしょー」
とかって言ってたのかと思うと微笑ましい(間違った尾張弁かも知れないんで尾張出身の方、すみません。ニュアンスだけでも伝わればと思って)。


帰らなきゃならない時間も迫って来たので僕たちは急いで次の目的地、京都国立博物館へ向かった。

他の秘仏開帳情報はコチラ秘仏開扉情報


【京都国立博物館】

f0013495_1318584.jpg


大学生130円で、こんなもの観ていいの?
国立博物館てやっぱ懐が広いぜ。
古代から近代に至るまでを網羅した京博の常設展。
古くは本物の貝塚(断面)、古墳から出土した石棺、和同開珎など。もう楽しくてしょうがない。
中世から近世にかけての絵画、特に、もとは建仁寺の襖絵であった海北友松の「雲龍図」はこれはもうスケールが違う。
これですこれ。

f0013495_1328259.jpg


友達が「リアルドラゴンボール」と言ってて笑った。

26日までは海北友松をフューチャーしてて、この人の大胆で豪快な筆致を楽しめた。
妙心寺の花卉図屏風
禅居庵の墨梅図襖
など。

曾我蕭白の「寒山拾得図」や「柳に亀図」、なかでも「蹴鞠布袋図」を友達は気に入って観てました。
僕は伊藤若冲の「猿図」にこころ奪われてましたが。やっぱ若冲、好きだな。

私、じゃくちゅう!!(宮崎吐夢風に)

こんなかんじで今回の旅行は終わりました。
京都駅まで徒歩で帰り、お土産を買って帰りました。


ためになったぞと思ったら投票
[PR]
by jai-guru-deva | 2006-02-28 13:46 | 今日知る旅行

京の都 二日目。

さて二日目です。

一日目前半はこちら京の都 一日目。

後半はこちら京の都 一日目 後半。


ひとしきりお笑い番組を見て、寝たのが3時。
その前の日はほぼ徹夜で過ごしたために疲労はかなりのものだったようだ。


僕たちはチェックアウトぎりぎりまで寝ていた。

フロントから電話があり、友人が取ったところ
「連泊されるのですか??」
と言われたそうな。

【清水寺】

とにかく僕たちは熟睡できたため、気持ちのいい朝を迎えた。
この日はまず朝から清水の舞台に飛び込む。


f0013495_1395551.jpg


みなさん良くご存知の清水の舞台。

よく、「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と言うが(思いきって物事にあたろうとすること)、とある記録を調べると、、、、

実際に飛び降りた人は江戸時代に234件(記録のあるものだけ)もいた。
生存率もなんと、85.4パーセントと意外に高い!!

だからといって、面白半分にサークル等で無茶なフリをして後輩を飛ばせるのはやめましょう。
むしろ俺がやる!!と言わんばかりに幹事長等、執行部の人間が器以上のものを求めて飛ぶのも止しましょう。
窪塚くんも安易に飛ばないでください。

14.6パーセントは死にますよ。
そもそも、観音の住むという浄土へ旅立とうとして飛び降りた者が多かったようなので。

さて、本堂は国宝に指定されており、徳川家光の寄進により寛永10年(1633年)に再建されたものです。屋根は寄棟造、檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出す。これにより外観に変化ができていて面白い。
建物の前半部分が山の斜面から出ていて、ここが「清水の舞台」。
139本という多くの長大な柱が「舞台」を支えている。このような構造を「懸造」(かけづくり)というのはこの際、どうでもよくて、この柱、実は何十年(何百年かも)に一度、架け替えられているようです。
そのために裏の山で樹を植林していて、その樹がいい具合に育つと伐採して架け替える。
その長期スパン、感動です。

f0013495_13252082.jpg


本堂正面南にある「子安塔」付近からの清水の舞台。
ここからは清水寺の全景を観ることができます。
なのに、けっこう皆ここまで来ない。
なぜだろう。「子安塔」自体、ボロいからかなあ。僕自身は下の写真の家光時代の再建である絢爛豪華な三重塔や鐘楼なんかよりもこの質素さがすきだけど。

f0013495_13305118.jpg


これがその豪華な三重塔。徳川家光ってキチガイかと思う程豪奢な建物を好むなあ。
日光東照宮とかもそうだし。

f0013495_1331560.jpg


これが「子安塔」。
慎ましやかでかわいらしい。

音羽山 清水寺


【産寧坂・二寧坂・維新の道】

清水見学を終えた僕たちは産寧坂の、坂本龍馬が停泊した明保野亭をみる。ここは明保野亭事件という事件の場(幕末の京都におけるテロリスト捕縛活動での誤報から会津藩士が土佐藩士を傷害・切腹させ、それに伴い会津藩士が切腹した事件)で幕末の主要場所でもあります(今は扇子や櫛なんかを売っている)。

f0013495_1358270.jpg


それから二寧坂の竹久夢二邸跡をみたりして、僕がこれも壬生八木邸と同じく京都に来ると毎回訪れる、「霊山歴史館」に行くことにした。

二寧坂を降りきって、維新の道と呼ばれる坂道を上っていく。
と、左手に霊山観音という大きな白い観音様が見えてくる。これは昭和30年の開眼で、コンクリートでできているようです。




f0013495_13573145.jpg


途中右手側には翠紅館跡があります。
ここは,元は叔阿弥という正法寺の塔頭の一つでしたが天保年間(1830年〜44年)に西本願寺の所有となり、荒廃していた庭園を整備、書院を新築して翠紅館と改称したそうです。
1863年(文久3年)年1月に
土佐藩武市半平太
長州藩井上聞多(後の井上馨ですね)
久坂玄瑞(前のエントリで触れた禁門の変で戦死)
など、また同年6月には
長州藩桂小五郎(木戸孝允のことです)
久留米藩真木和泉守(これも禁門の変でたしか自刃)
などの反幕府勢力の各藩志士代表者の会議がもたれ,攘夷の具体策が検討されました。これを翠紅館会議と言います。

で、坂を登りきると左側に霊山護国神社、右側が霊山歴史館です。
護国神社からは維新志士たちの墓参りができます。ここには全国の志士たちがまつられ、総勢数千人のお墓があります。霊山とよばれる由縁です。
有名なもので坂本龍馬、中岡慎太郎、木戸孝允とその奥さん幾松の墓、また池田屋事件で死亡した藩士たちの墓もある。
霊山護国神社

さて、次は霊山歴史館。

続きはまたあとで。

ためになったぞと思ったら投票
[PR]
by jai-guru-deva | 2006-02-27 14:07 | 今日知る旅行

京の都 一日目後半。

さて、つづきです。
一日目の前半をまだご覧になっていない方、コチラ京の都 1日目をご参照下さい。

壬生を出た僕たちは二条城を目指しました。

ところが、五時までは大丈夫だろうと踏んでいたのに、四時で閉城していたため、入城できませんでした。
二条城ホームページ

どうしよう、と話し合った結果、京都御所が近いので御所に行くことにしました。

【京都御所】

僕たちが行ったのは御所ではなく、正式には御苑。
御苑は現在府民の憩いの場として公園になっている。殺風景だけど、昔は公家の屋敷が軒を連ねていたそうです。それが東京遷都に際し、公家の多くも天皇に従ったため、この御所は荒廃してしまったとのこと。

建礼門を正門とし、政務の中心であった清涼殿、紫宸殿などがあるのが御所、禁裏であり今の時期は宮内庁にあらかじめ参観予約を入れなければなりません。(春と秋だけ一般公開しているようです)

まず僕たちは、禁門の変(蛤御門の変)の激戦区となった、蛤御門へと向かいました。
広大な御苑の土地。なかなか着きません。けれどその間、僕たちは昔の公家たちに思いをはせたり、古今の英雄たちについて語り合ったりして盛り上がりました。だって、思い当たる歴史上の人物で、この地を無視した人はいないのだから。みんな一度は来ているはずだと思うと興奮せざるを得ません。



f0013495_12442236.jpg


蛤御門の名前の由来は、天明の大火(1788年1月30日)の際、それまで閉じられていた門が初めて開門されたので、「焼けて口を開ける蛤」に例えられたためであるという。天明の大火以前は「新在家御門」と呼ばれていた。

尊皇攘夷論のさきがけとして京都で活躍していた長州藩は、1863年(文久3)に会津藩と薩摩藩が共謀した「八月十八日の政変」とよばれるクーデターで京都を追放されていた。
藩主の毛利敬親と子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられて政治主導権を失っていたが、京や大坂に密かに潜伏した数名の長州尊攘派は行動を続けていた。
元治元年に入ると、天皇をふたたび長州陣営のものとするため、京都に乗り込もうとする積極策が長州で論じられた。この時の積極的に上洛を説いたのが、来島又兵衛、久坂玄瑞。慎重派が桂小五郎と高杉晋作。このあたり、やはり桂と高杉は冷静である。

そんな背景の中、6月5日の池田屋事件で新選組によって多くの藩士を殺された変報が長州にもたらされると、高杉晋作らは藩内の沈静化に勤めるが、積極派の福原越後や益田右衛門介、国司信濃の三家老などは、「薩賊会奸」を掲げて挙兵。益田、久坂玄瑞らは山崎天王山、宝山に、国司、来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、福原越後は伏見長州屋敷兵を集めて陣営を構えるに至った。

果たして、蛤御門付近で長州藩兵が、会津・桑名・薩摩各藩の諸隊と衝突(この会津諸隊のなかに新選組もあった)、この戦いで長州勢は壊滅、来島又兵衛、久坂玄瑞、寺島忠三郎らが死亡した。
この戦災で京の街は3日間燃え続け、実に街の2/3が焼失したという。

この一連の長州の暴走を「禁門の変」というが、この事件において長州藩兵が”御所へ向けて発砲した”ことなどを理由に幕府は長州藩を「朝敵」として、第一次長州征伐を行う。

「禁門」とは「禁裏の御門」の略した呼び方である。
禁門の変が蛤御門の変とも呼ばれるのは、蛤御門付近が激戦区であったためである。そのため今も門の梁には弾痕が残る。


f0013495_12563421.jpg
f0013495_1256486.jpg












これがその弾痕。

「この弾痕はこっちから撃ち込まれているからきっと長州のものだな」とか
「これは門の内側だから、会津か薩摩だ」とか
この門のまえで僕たちは小一時間盛り上がりました(笑)


それから真っ直ぐ行くと正門である建礼門があります。

f0013495_1342317.jpg


もっとも格式高い門で現在も天皇陛下もしくは外国の元首にしか開かないそうです。
僕たちがいくらもがいても一生この門からは入ることができません。


f0013495_1363424.jpg

御所の南東にある、建春門。
ここは、勅使の出入りに使われていた門です。明治期以降、皇太子、皇后、外国の元首が出入りする門となったそうです。


この御所の中には上で書いた通り、予約なしでは入れないため、公式のホームページを参照してください。内部の様子をムービーで観れます。勉強になりますよ。
京都御所
もしくはグーグルマップで上空から覗いてみるのもいいかもしれません。


さて、京都御苑、公園として開放されているとはいえ、最重要な文化財が集まる場所。警戒は怠っておれません。

f0013495_13141177.jpg


この皇宮警察が四六時中苑内を見回っていました。おつかれさまです。



御所にはまだまだいっぱい行きたい場所があったけれど今回は断念。
もう少し北に行くと、猿ヶ辻という角があり、そこで幕末、人斬り新兵衛と恐れられた田中新兵衛によって、姉小路公知が暗殺されるという事件があった場所なんかもあったのだが。

御苑で時間を潰しすぎて、辺りはもう薄暗くなったので四条河原町あたりで一杯やろう、ということになり、徒歩で河原町へ。

祇園が近いので、ちょっと祇園の街をのぞいとこうか、と花見小路まで歩く。


【祇園 花見小路】

f0013495_13231534.jpg


花見小路に入ってすぐ。
深紅の塀に囲まれた立派な茶屋に出会う。
ここがかの有名な「一力」で「仮名手本忠臣蔵」では大石内蔵助が雄伏の時を過ごしたとされ、それに触発された新選組の近藤勇も馴染みとなったようだ。

のれんが「万」とあるのはもともとの名前が「万春楼」などと言ったためだとか。
それが歌舞伎の舞台となるにあたって、当時幕府では、芝居に本名を使うことを禁じていたから「万」の字を「一」と「力」にわけて屋号としたそうである。
また主人は「杉浦次郎右衛門」を名乗り、代々この名を襲名し、当代で13代目ということです。


f0013495_13305562.jpg


一力の塀と花見小路。
ここからまっすぐ路地が続き、昔の様子がよく残ってあります。
ところどころにある細い路地など、京都らしさ満載です。
駐車している車がだいたいおっかなくてあれですが(笑)

いい具合にお腹をすかせた僕たちは、かねてより楽しみにしていた河原町の先斗町でお酒を飲むことにしました。


【先斗町】

先斗町は大人二人が並列で歩くのがやっとのとても細い路地で、両側に高級料亭から大衆居酒屋まで軒を連ねています。

歩いていると少し広くなったところにでて、運良く灰皿もあったため、ちょっと一服。

f0013495_13364990.jpg


この後ろは四条河原で、数組のカップルが岸に腰をおろし、デートを楽しんでいました。




ふと横をみると、、、、

f0013495_13381281.jpg


「あらゆるのりもの一切置かないで下さい。垣が壊れます。」
という注意書きが。

「あらゆるのりもの」というところに幾多のも激戦があったことをうかがわせます。












f0013495_13401640.jpg


結局注意書きの真ん前に自転車が放置されていたわけですが。

マナー違反の人に負けず、文化財の保護、がんばってください!





そんなこんなしていると雨が降って来て、やばい、はやくどっか入ろう、と気持ちは急くのだが、如何せん、目移りする量の飲み屋。

もう、ここでいいや、と少しオシャレなところをチョイス





ここがめちゃくちゃ良かった





炭火焼のお店で、カウンター席に通されたのだが、真ん前に網があって、言ったモノを焼いてくれる。
お兄さんが駕篭一杯に野菜を持ってきて、野菜の説明をしてくれる。
僕たちはエリンギ、茄子あたりをいただくことにした。
お通しも、トリの刺身(前の網で勝手に焼いてもいい)、なにか忘れたが、お魚、と豪華なものでこれもすごくおいしかった。

野菜がなくなると次はまたお兄さんが駕篭一杯に魚をつめてもってくる。
例によって魚の講釈を受け、僕たちは鮭の頭を頂くことにした。

味は、、、
筆舌に尽くしがたし、とはこのことを言うのであろう。一度行きましょう。みなさん。

お酒も焼酎、日本酒、だいたい揃っていて、なかでも梅酒の種類は昨今の梅酒ブームからか大変な量だった。
僕は蜂蜜梅酒を、友人は晴耕雨読を、それぞれ飲む。

ある程度酔っぱらった僕は店員さんに失礼なことを聞いてしまった。
席の横に張り紙で「炭虎」がどうたらこうたらと書いていたので、僕はそんな炭、きいたことないなあ、と思って

僕「炭虎ってどういう炭ですか?備長炭の種類とか?」
店員「は」
僕「??」
友人「ばっか、お前これは、、、」
店員「炭虎は当店の名前でございます笑」

恥ずかしいので焼きおにぎりを頂きました(笑)

f0013495_1403586.jpg


これも前の網の上で鶏ガラのだしと一緒に焼いてくれます。
おにぎりを器に盛って、そこにだしを入れて、お茶漬けのように食べる。
はい、うまくないわけがないです。

これで締めにしよう、と思っていたら、店員さん
「サービスでお餅を焼いておりますがいかがでしょう?」

食後にサービスで餅??
もちろんいただく。
ひとくちサイズにきられてあるお餅はすこしだけ砂糖がきいているのかほんのりと甘かった。
この餅が、しかし無限にでてくる。

このあたりで僕は眠さがピークに達していて、うたた寝をしてしまった。
その間、友達は一人でお酒を飲み、お餅を食べていたのだろう。


お会計はまあ、ちょっとはったが、それに見合うものだった。料理もお酒もだけど、なにより、京都弁のお姉さん。
「なンにしはりますか?」
なんて言われただけで、そこの代金を払う気になる。

さて、そこからはタクシーでホテルまで。
風呂に入ってすぐ寝よう、としたのだが、水曜日の京都のテレビ番組は鬼畜で
全く寝させる気がない。

水10!
空飛ぶグータン
ガキの使いやあらへんで!!
松紳

結局3時くらいまで起きているハメに。
面白かったからいんだけどさ。

こうして一日目は笑いとともに更けていくのでした。

つづきはまた!


ためになったぞと思ったら投票
[PR]
by jai-guru-deva | 2006-02-26 14:16 | 今日知る旅行

京の都 一日目。

荒川さん、金メダルおめでとうございます!大学の先輩でもあるわけだからこれはすごくうれしいですね。伊藤みどりと肩を並べたわけですね。
NIKKEI NET

さて、僕は友人と22日水曜日から昨日まで一泊二日で軽ーく京都に行ってきました。
今回はそのレポでも。

旅行前日どういうわけか後輩と飲んでしまい、ほとんど寝ずに行ったものだからややヘロヘロでした。
が、行きの新幹線の中から受験生が見たら真っ青な見事な富士山が見えました(上京に東海道線の新幹線を使用する受験生の中に「富士山が見えたら落ちる」というジンクスがある)。

f0013495_15282167.jpg


とても立派な富士山。これを見て一気にテンションがあがり、眠気も吹っ飛びました。すごいなあ、富士山は。

およそ2時間30分で京都に。近いものです。
中学の頃の卒業旅行以来毎年必ず京都に足を運んでいるのだが、そのときほぼ必ず、行くところがある。
いつ行っても飽きない。それは僕を形成したひとつの重要な要素である新選組の屯所であった八木邸である。

ホテルで荷物を置いた後、早速新選組の屯所、八木邸に行くことに。

【壬生 八木邸】

f0013495_1534481.jpg


これが門である。ただ、浅葱色と白の垂れ幕のようなものが気になる。これはNHK大河「新選組!」以降つけられたものだ、と僕は記憶している。正直、こんな悪趣味なものはとっぱらっていただきたい。

中に入ると受付のおばちゃんが待つ。
拝観料を見て引いた。

大人 1000円(抹茶付き)

いやいやいや。
僕はこれがすごく気に食わなかった。値段が法外なわけじゃあ決してない。1000円払ってでも見る価値はある。そりゃそうだ。新選組の主要隊士が住み、初代局長芹沢鴨ら芹沢一派が暗殺された場所がそのままに残っているのだから。そこにあがるのに1000円払ってでも行きたい人はいる。僕なんかはそうだ。

ではなにが腹が立つかって。

大河が始まる前は

300円

だったんですよ、ここ。

で、大河以降徐々に値上がりし、昨年来た時は抹茶がいらない人は700円だった(抹茶つけたら1000円)。

しかし今回はとうとう抹茶がデフォルト。はずせない。

僕「おばちゃん、また値上がりしましたねえ」

僕はちょっと皮肉っぽく受付のおばちゃんに言ってみた。

「そうやったかねえ?ずっとこれでやらせていただいとりますよ」




とぼけやがった。

あこぎな商売やのう。

けれどこれまで、一人300円で、ほとんど客も来ず、それでもこの貴重な文化遺産を守って来られたのだ。八木家のみなさんを思えばこそ、ここは仕方ない。僕たちは1000円ずつ払い受付する。
みるとその日だけですでに100人近くはお客さんが来ているようだ。
おばちゃん曰く、大河のやっていた時は1日に2000人もお越しになったようだ。

恐るべし、日本人のミーハー魂
恐るべし、大河ドラマ効果☆

1日2000人の客が1000円ずつ置いていったら、、、、、
やめておこう。

さて門をくぐるとすぐに母屋に出る。

f0013495_15511160.jpg

f0013495_15513235.jpg


ここが芹沢一派暗殺の場所。芹沢だけではなくその妾であったお梅さん、部下の平山五郎、それから平山と添い寝していた女の4人がここで犠牲になっている。
当時は血まみれになっていたためもちろん壁紙を張り替え畳も変えてある。天井も塗り替えてあるが、これが塗っても塗っても血の跡が浮き出てくるそうだ。あなおそろしや。

ちょっと重いけど動画もどうぞ。

八木邸



芹沢はこの部屋で襲われて、となりの部屋に向かい、そこで絶命しているのだが、その際鴨居に新選組の誰かの刀傷が残っている。

ここでまた気を悪くすることに気づく。
案内のおばちゃんに言われて気づいたのだが、前は、刀傷が3箇所ほど残っていた。
僕もそれは記憶している。
しかし今では一番深い刀傷しか残っていないのだ。

これはどういうわけか。
1日2000人もの拝観者を記録した当時、とりあえず話題だから行ってみようというくらいの軽いノリの人たちが多かったはずだ。
その人たちだけが、というのではないが、それだけ多くの人がこの刀傷の跡を触ったらどうなるだろう?
摩耗して消えてしまうのである。
最低だ。すごく悲しくなった。


そのあと八木家の子孫の方が経営しているお菓子屋さんでお茶をいただき、同じく屯所であった前川邸跡にいく。

f0013495_16182856.jpg


ここは現在別な方がすんでおり、正式には旧前川邸跡となる。
内部は一般には公開していない。
ここは主に近藤勇一派が使っていたところで、内部には池田屋事件の発端、土方歳三による、古高俊太郎拷問のあった部屋も残っているらしい。
また、現在はなくなったようだが、総長山南敬介が脱走の罪で切腹を申し付けられた際、馴染みの芸妓、明里と別れを惜しんだ出窓も昔はあったようだ。

そのあと壬生寺に行く。

f0013495_1624633.jpg






f0013495_16242437.jpg






























当時、沖田総司がよく近所の子供と鬼ごっこをして遊んでいたといわれる壬生寺境内。
その日も子供が遊んでいて、当時を思い、感慨に耽ることができた。
下の写真、千体仏塔のてっぺんにちょうど太陽がかかり幻想的だった。写真でうまく表現できてるかなあ。



★以下にそれぞれの場所のリンクを載せておきます。

八木邸
旧前川邸
壬生寺

つづきはまた!


ためになったぞと思ったら投票
[PR]
by jai-guru-deva | 2006-02-24 16:40 | 今日知る旅行

つまり、ただ、それ。

昨今の都内の分煙傾向は以上なほどで、ある種のアレルギー的なものを感じるのは僕だけだろうか。

僕が大学に入学した2003年は、まだ学内での喫煙者の居場所はあった。
早稲田大学の文学部キャンパスでは校舎内に灰皿があり、喫煙場所が確保されていたほどである。
もっと昔のひとからいわせれば、それでも随分追いやられていたのだろうが、それは僕の知るところではない。

そんな校舎内の灰皿はその2003年のたしか後期には撤去されていた。当然そこの喫煙所もなくなる。
これで校舎内でタバコを吸える場所は無くなった。

そしてそれからは日に日にタバコを吸えるスペースが学内から消えていった。
いたるところにあった灰皿はホロコーストにあったが如く、キャンパスの一番奥に折り重なって捨てられていた(その中のひとつを拝借して僕の所属していたサークルの部室に置いた。今も使われているはずだ)。

さらに食堂の半外のスペースは2004年夏頃までは、そのほとんどが喫煙可能だったはずだが、夏休みを終えてみると喫煙と禁煙の席の割合が逆転していた。
これには本当に驚いた。

そして2005年8月。
新宿区は路上喫煙を禁止し、違反者には罰金を取るという条例を定めた。

時をさかのぼってみると、分煙はなにもキャンパス内だけに限ったことじゃなかった。
2004年あたりから高田馬場周辺、早稲田通りにあった灰皿が撤去されはじめた。
明治通りと早稲田通りとの交差点に灰皿が置いてあったことがいまでは懐かしい。

そして上記の条例制定以降、コンビ二に備え付けられているはずの灰皿まで撤去されはじめたのである。
完全に街から路上喫煙を閉め出しにかかったのだ。
歩きタバコは本当に感じが悪い。というか喫煙者であっても、歩きタバコしている人間とすれ違うとムッとする。ましてや吸わない人の心中、推して計るべし、である。


さて、今回の本題に入る。
そんな分煙ブームによっていまでは新宿区のコンビ二ほぼ全てで灰皿をみかけなくなった。
僕の家の近所はコンビ二がたくさんあるのだけれど、その全てが例外ではない。






と思っていた。





しかし僕はある日、最寄りのセブンイレブンで愕然とすることになる。







とある寒い日。
セブンまで行こうと、外に出た僕はひと気もないので少しだけ後ろめたく思いながらもタバコに火をつけた。

喫煙者のみなさんは分かっていただけると思うが寒い日のタバコは格別にウマい。

白い息と一緒になった大量の煙を吐きながら悦に入っているとすぐにセブンに着く。

さて困った。
吸い殻の処理だ。
携帯灰皿を忘れてしまった。セブンからは灰皿が撤去されたあったから僕はJTゴメン、と思いながら、排水溝でタバコを消した、というか隠しそうになった。







そのときだった。










僕の目にそれは飛び込んで来た。









f0013495_436039.jpg










ゴミ箱??










うそだ










こいつはどうみても、、、。









灰皿☆










しかしこれだけ自己主張しているのである。

「おれはゴミ箱だぞ!間違えるな!」

と言わんばかりの赤く火照った装い。

僕はそこになにが入っているかおそるおそる覗いてみた。





f0013495_4362054.jpg






f0013495_4365179.jpg









f0013495_4414364.jpg










ガクガク(((( ;゚Д゚))))ブルブル






これは


灰皿☆


ではないか。

どこからどうみても


灰皿☆


ではないか!!






何故、「ゴミ箱」と名乗る必要があったのだ?









それはおそらくカモフラージュだと僕は想像する。

多分、区役所から役人が来るのだ(多分)。
そして灰皿なんて置いてあった日には厳重な処罰がまっているのだ(多分)。
しかし店側は灰皿を置かないと店の前でポイ捨てされたり、燃えるゴミの中に吸い殻入れられて、ちょwwwwwwwwおまwwwwwwwwwww燃えるから!みたいな状況になったりして面倒臭いのだ(多分)。

そこでとあるアルバイトが考えたのがこのカモフラージュ作戦だったのだ!(多分)









・・・。




みなさん、歩きタバコは危険です。絶対にやめましょう。
タバコはきちんと灰皿に。
ゴミ箱に捨ててはダメですよ!




ためになったぞと思ったら投票
[PR]
by jai-guru-deva | 2006-02-18 04:53 | 今日知る面白

Mac OS X初のウイルス登場。

Mac OS X初のウイルス登場にセキュリティ各社が緊急警告
ソフォス Mac OS X のウイルスについて
RBB TODAY

 このウイルスはワーム型。
「OSX.Leap.A」または「Oompa-A」などと呼ばれている模様。
Mac OS X上で動作するチャットシステム「iChat」を介して感染を広げるものだという。
僕は「iChat」は使わないのでとりあえず安心。

 このウイルスは、『自身をlatestpics.tgzというファイル名で感染したユーザーのBuddy List(友人リスト)に掲載されている宛先に、iChatインスタントメッセージングシステムを介して転送し、感染を広げる。Latestpics.tgzファイルが開かれると、JPEG形式のアイコンに見せかけた無害なコンテンツを装うほか、感染したプログラムのリソースフォークに感染のマーカーとして「oompa」というテキストを書き込み、同じファイルが再感染するのを防ぐという。 』

とのこと。
 ソフォスシマンテックなど一部のセキュリティソフト開発会社はすでに対策ソフトを提供している。



んんーMac安全神話が崩れてきましたか。
シェアが拡大すると一方でこういう危険も出てくるから悩みどころですな。

ためになったぞと思ったら投票
[PR]
by jai-guru-deva | 2006-02-17 18:08 | 今日知るニュース

中3の社会のテスト。

昨日見た夢を書くというコンセプトにも関わらずまったく書いてないことに気づきました。
初夢のことすら書いてない。
いまとなってはもう初夢なんて忘れてしまったけど。

なので今回の投稿は昨日見た夢日記です。

見覚えのある校舎。懐かしい制服。
ここは僕の母校、長船中学校。
僕はどうやら中学生の頃に戻ったようでした。

授業が始まる。
次が何の授業か分からないがみんな次の授業が行われる教室へと走っていく。
そこはとても綺麗な教室で、家庭科室と書いてあった。
家庭科か。でもこんなとこに家庭科室なんてあったっけ?しかも綺麗すぎる。

「こんなとこに家庭科室なんてあったっけ」
「何いっとん、前からあったが」

僕は合点を得ないまま教室に入る。
後ろから入ろうとしたが、何故か柱があって入れないので前から入った。
そこには僕が中1の頃の担任と高1の時の副担任(お二方とも僕が大変お世話になった先生)がいて、生徒は長中時代の連中ばっかりだった。

僕の席は後ろから二番目。
妙な形の机だった。後ろには小学校時代のガキ大将。

その日はどうやら授業ではなくテストのようだった。
歴史のテスト。
なんで家庭科室で、、、?

そんなことを疑問に思う暇も無く解答用紙と問題用紙が配られ、テストが始まった。
僕は解答用紙の名前を書く欄に学年を書く欄があったが自分の学年が分からなかった。
先生が板書する。どうやら僕は2年生らしい。中学2年。

夢の中で僕は自分の存在を疑い始める。
何かおかしいぞ、僕は中学生なはずがない。
大学に通っているはずだ。

何かの拍子で時間が過去へとさかのぼったのか。そんなことあるのだろうか。
けれど現実に僕はいま中学にいる。
過去に来てしまったのだ。

そう気づいたとき、僕はひどい絶望に襲われた。
過去に戻ることがこんなに辛いことだなんて思ってもみなかった。

嫌だ、
戻りたい。
大学生の自分に戻りたい。
苦しい苦しい苦しい苦しい、、、、


瞬間、ふと思った。


ーこれは夢なのでは。













僕は夢から覚めた。
起きる予定の時刻より少しだけ寝坊していた。




はいはい、ワロスワロス
[PR]
by jai-guru-deva | 2006-02-16 13:09 | 昨日見た夢

FinePix S5200 

以前使っていたデジカメ(サイバーショット)が、あろうことかビールがかかってお釈迦になって二ヶ月。

購入したビックカメラ新宿西口店に修理を頼んでいたのだが、冠水品のため修理不能とされ戻って来た。
しかし、僕は購入時ビックカメラのビック長期保証に加入していたため、冠水での破損にも関わらず、【ビック総合保証】というのが効いて免責金2000円で新品と交換してくれることに!!

しかし、流行り廃りのはやいデジカメ業界。
僕の使っていたサイバーショットは既にずいぶん型落ちでどこの店舗にも在庫がない、という事態。

しかしここでビックカメラは神だった。

「では申し訳ないんですが、お客様が使われていらっしゃったカメラ、提供価格40000円でございましたので、当店で取り扱っているデジタルカメラ、どちらでもお好きな商品を40000円まで保証させていただきます」

全然申し訳なくない。

なんと心憎い申し出。
つまり、どのカメラでも値札から-40000円で購入できるのだ。

素晴らしい。
僕は店員に案内されるがまま2階デジカメ売り場に来た。
目移りしてしまう。
普通のデジカメで40000円もするものなんてそうない。
言ってしまえばどれもこれも僕が、指名すればもらえてしまうわけだ。
ふはははははは、王の気分じゃ。

正直、サイバーショットは価格のわりに性能はあんまりだったのでソニーは見限る(たしかにスタイリッシュでデザインは好きだけど。もうそろそろソニー妄信の呪縛から逃れたい)。

うろうろといろんなカメラを物色する。
しかし販売員が常に僕について回っているのでなんだか落ち着かない。
僕はカメラにあんまり詳しくないのでいろいろ聞こうにも、
「はやく選べ。はやく選べ」
と言わんばかりの視線を投げ掛けてくる。じっくり一人で見て回りたいなあ、と思った矢先だった。


僕の方をじっと見つめるカメラの視線に気づいたのだ。



f0013495_17154859.jpg
f0013495_1716101.jpg





「FinePix S5200」
彼は静かにそう僕に自己紹介した。

「・・・これにします」
僕はFinePix S5200を見つめたまま店員にそう告げた。




というわけで僕はFinePix S5200を購入。3000円分超過した金額を払っただけであった。
FinePix S5200についてのレヴューはコチラを参照して頂きたい。
デジカメwatch

機能が豊富で、専門用語も曖昧な僕はまだいろいろ戸惑うがこれで撮影してみたものを載せてみます。

つづき
[PR]
by jai-guru-deva | 2006-02-15 17:46 | 今日知る芸術

信長の野望ー革新ー

信長の野望の新タイトルである。
小6の時から始めた、自称「信長の野望」フリークな僕ですが、今作はここ数作の中でもかなり楽しめるデキでした。

f0013495_4585819.jpg


まずは「信長の野望」についておさらいしておきましょう。
光栄(現・コーエー)が発表した「信長の野望」に端を発する。
歴史シミュレーションという概念もなかったであろう当時としては画期的すぎるほどのゲームシステム。
一作目は史実で織田信長が統一した近畿と、信長と覇を争った上杉家、武田家、北条家のあった関東甲信越のみのマップで、中国地方も東北も四国も九州もない。
城単位ではなく国単位での国取り物語が展開される。
かなりシンプルなゲームであり、武将という概念すらない。
織田家なら信長だけ、武田家なら信玄だけ、である。
「人は城、人は石垣、人は掘」
なんて言葉は通用しない。
完全なワンマン国家で国政を動かすわけだ。
ちなみに大名の能力値はなんと、ルーレットで決まる。
アバウトすぎやしませんか、それ。

そんな「信長の野望」の歴史をまとめるのも面白いが、膨大な量になるだろうからまた今度にします。

信長シリーズの最新作「革新」は、将星録、烈風伝のように日本地図を一枚絵で表現。ただし「革新」では「嵐世記」以降の3D技術を結集させ、3D日本を描き出すことに成功している(コーエーの3D技術は三国無双などで磨いたとは言ってもまだまだ粗いが)。内政(町づくり)も戦争も一画面でできてしまう。まるでシムシティをやっているようだ。
そしてターン制をやめ、リアルタイム制を採用しているから、大忙しである。
僕が他国に侵攻の軍を出せば、ここぞとばかりに敵対するほかの隣国から軍勢がせめよせる。戦争中にも外交の使者が来たり、内政中に攻められると内政に従事する武将を城へ帰還させたり。
これほど、戦国大名との一体感を持てたのはシリーズ初である。とにかく忙しい。
とっさの判断で、お家滅亡と相成り得るわけである。

そんな「信長の野望ー革新ー」
僕は、地元の戦国大名、宇喜多直家で始めることにした。

プレイレポートの前に宇喜多直家公の史実伝記を。一般的には息子、秀家の方が有名だが、直家はハンパない人物だったことが以下を参照くださればお分かりになるはずである。

【宇喜多直家】

享禄2年(1529)、備前国邑久郡豊原荘(現・岡山県瀬戸内市邑久町)の砥石城に生まれる。
浦上家の家臣。
6歳のとき、有能な祖父の能家(よしいえ)が同僚の高取山城主・島村貫阿弥に、その才能を妬まれ謀殺を謀り、攻め込んでくる。能家は息子と孫ら一族郎党の命を保証することを約束させ自害。直家は父とともに城を脱出、備後鞆・備前福岡(僕の実家があるところです)・同笠加を転々とする。

f0013495_4592545.jpg

(木像は光珍寺が所蔵していたが、戦災で焼失)

直家の父、興家(おきいえ)は無能で好色な人物だったようで、僕の実家近くにある、日蓮宗妙興寺(司馬遼太郎「播磨灘物語」冒頭にも登場する。現住職は東大卒だったと思う)近辺の豪商阿部家に居候するうち、そこの娘とデキてしまい、息子と娘をもうける。
この息子が後の忠家であり、直家の異母弟である。
興家は何の野望もなく、そのまま備前福岡の地で病となり、死亡。妙興寺に葬られた。
その間、直家は鼻水をたらした馬鹿面のまま遊びまくり、近所の子に虐められ、と散々だが、これは宇喜多全滅を望むものの目をくらますため、直家がわざと馬鹿息子を演じていたと言われている。証拠に、浦上家仕官後の直家の暗躍ぶりたるや、凄まじい。

天文12年(1543)、旧主家である浦上宗景に出仕する。同年初陣で功を挙げ、翌年には小城塞・乙子城の城主に抜擢(わずか15歳!!)され、数々の戦功を挙げる。
永禄2年(1559)、自らの妻の父、つまり舅の中山信正を謀殺して居城と領地を奪い、祖父の旧領地も奪回する。同時に仇敵・島村貫阿弥を謀殺。以後、亀山城を居城とし領地の拡張に努め、永禄4年(1561)には龍乃口城を攻略。


永禄9年(1566)、美作・備前進攻をうかがう備中松山城主・三村家親を暗殺。翌年、2万の兵力で備前に攻め入った家親の子・元親をわずか兵5千をもって撃退(明禅寺合戦)する。
翌年には備前国西部の有力者・松田氏を滅ぼして主家を凌ぐ勢力となり、元亀元年(1570)、岡山平野制圧を意図し、好適地の石山の城を奪うため同城主・金光宗高を謀殺。大改修を施して天正元年(1573)入城する。この際、「丘山」の地名を「岡山」と変え、自分の育った備前福岡から多くの豪商たち(当時の備前福岡の反映は時宗の「一遍上人絵伝」に詳しい)を岡山へと移転させた。
そのため、現在も岡山の街には、備前福岡と同じ地名がついているところがある。


力をつけた直家はついに主家・浦上宗景に対し、謀反。天正5年(1577)に追放する(宗景は行方不明)。その領地を収めた直家は備前国・美作国南部に播磨国西部までを領する有力戦国大名に成長を遂げた。
その後、織田信長の命で中国地方進攻に乗り出した羽柴秀吉に対抗して一度は毛利と結ぶが、結局信長に帰属。毛利勢と激しい攻防を繰り返し、その最中の天正9年(1581)、病により生涯を終える。権謀術数に生きた直家を「戦国の梟雄(きょうゆう)」と呼ぶのは以上のような経略からである。
その凄まじい、まさに血塗られた戦国時代の暗い影は弟、忠家でさえ気の休まることはなかったと、ある書物に伝えられている。

「兄上の前に出る時は冷や汗がとまりませんでした」
とは忠家の言だ。
しかしそんな直家も晩年は気が弱くなり息子秀家を過保護なまでに溺愛し、重臣たちはもとより、盟友とはいえ敵国である秀吉にまで
「はちろう(秀家の幼名)をおたのみ申す。くれぐれもおたのみ申す。」
と遺言している。


これは秀吉にも言えることだが、裸一貫からときに権謀術数を用いてのし上がった者は、おそらく第二の自分が現れることを最も心配するようだ。
秀吉は「兵農分離」「刀狩り」を行い農民から武士になる道を閉ざしたし、最期は息子秀頼のことを徳川家康に託している。
「ひでよりのこと、かさねがさねおたのみもうしあげ候」
これが天下人秀吉の遺言である。なんとも女々しい。

さて、そんな直家の愛息子秀家の半生も見てみよう。

【宇喜多秀家】

f0013495_4595432.jpg


秀家は天正9年(1581)、父の病没により9歳で家督を相続。翌年毛利征伐のため出陣してきた羽柴秀吉にその利発さと顔立ちを気に入られ、養子扱いの厚遇を受ける。
秀家の顔は肖像の通り、目鼻立ちの通った色白の美男子と言える。

「本能寺の変」ののち、秀吉の天下取りの戦いに積極的に参戦、数々の戦功を挙げ、天下統一後は備前国・美作国・播磨国西部と備中国東半の57万4千石を有する大大名に躍進した。天正17年(1589)には、前田利家の娘で秀吉の養女となった豪姫を正室に迎えている。文禄の役(第一次朝鮮出兵)では元帥を務め、戦後その功により中納言に昇進(!!)。さらに、徳川家康、前田利家らとともに豊臣政権の最高機関である五大老に大抜擢。名実ともに実力者となった。

この間の天正18年(1590)、自らの勢力に見合う居城の築城に着手。築城の名手でもあった秀吉の指導を受け、父・直家が居城とした石山の城の横の丘陵「岡山」に本丸を構えることとした。同時に、近世的な城郭構想に基づき城下町の建設にも着手、商工業者を城下に集め、現在の岡山の基礎を築いた。天守閣は慶長2年(1597)に完成。この城普請は豊臣秀吉の大坂城、毛利輝元の広島城とともに大型近世城郭の先駆(姫路城はまだない)をなし、当時としては全国級の大型建造物となった。
その黒い壁の佇まいから現在も「烏城」と呼ばれ親しまれている。

さて秀吉没後も徳川家康らと政務の中枢にあったが、家臣団の統率に失敗し、慶長4年(1599)家中騒動が勃発、歴戦の重臣達に離反されることになる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍の主力となって奮戦するが壊滅・敗走、薩摩の島津家へ逃れた。3年後、幕府に出頭。出頭したことから死罪を免れて二人の子息、近侍とともに八丈島へ配流された。八丈島でなんと約50年間を過ごし、明暦元年(1655)、83歳で没した。
配所の宇喜多一族には、豪姫の実家・前田家や旧家臣・花房家から援助が続けられたという。


これが宇喜多2代の系譜であるが、僕が操る直家は果たして天下を穫れるのでしょうか。
長くなったので以下に続きます。

「信長の野望」プレイレポート。
[PR]
by jai-guru-deva | 2006-02-14 05:58 | 今日知るゲーム

ダッチワイフ。

ダッチワイフが最近すごいらしい。

f0013495_22171142.gif
ダッチワイフって漫画"BECK"で斎藤サンていう親父の家にあったようなブッサイクなビニール製のものしかないと思ってた。

f0013495_2042669.gif


こういうやつ。

これは抱きながら寝れない。
どこかのおばさんじゃないか。






しかし、科学の進歩は僕の思ったよりも凄まじく、また、熱心にダッチワイフを研究していらっしゃった会社があった。





その名をオリエント工業

まずはこの画像を見て欲しい。


f0013495_2085868.jpg



一瞬本物の女の子かと見間違える。
上のいわゆるダッチワイフとは全くの別物。
名前もダッチワイフではない。
本来、「オランダ人の妻」あるいは、「東南アジアなどで昼寝などに使う、竹を編んで作った抱き枕、手足載せ」という意味のダッチワイフとは違って、英語圏で使われるsex doll, love doll にちなみ、
ラブドール
というらしい。
この精巧な人形、関節は人間と同じように動き、水に濡れても平気。
人間と同じ関節ということで曲がらない方向へ曲げようとすると折れてしまうらしい。
等身大(全長150cmほど)のため服は通常の女性用のものを着る。

人の家に行ってこいつにお出迎えされたらコワイものをかんじるけど、、、。

人形は3タイプあるらしく、

ジュエル(最高級品)
ジュエルライト
ソフト

とある。
ジュエルは関節に継ぎ目すらなく、本当の人間のように動く。

価格は ¥630,000!!!

人形に63万円もだす人がいるのだろうか??

ソフトシリーズでは素材をシリコンとソフビとからえらべるようで、安いソフビ素材の方でも

¥196,000

すごすぎる。

この価格を見れば勿論、一般人には手が出ないのはお分かりだろう。
しかし世の中には、いろいろな商売を思いつく人がいるものだ。

これはほんの一例だがエンジェル☆キッスというお店がある。

ここではこのオリエント製ラブドールの貸し出しをおこなっているのだ。
ここのお店まで行って、ホテルのように一室を借りる。
レンタルする時間を選ぶ(60分からオールナイトまである)。
そしてお好みのラブドール(ちゃんと名前もついている)を選ぶ。


あとはご自由に、、、。


しかしすこし考えて欲しい。
恐ろしすぎないだろうか。
人形と一夜をともにするのである。
ちなみに一晩¥25,000
声をかけてみても相手からは何の返事もない。
いくら自由に体勢を変えれるといっても、自分で変えてあげなければならない。

確かに現実の子のように文句を言ったりはしない。キモイだダサイだぬかさない。
けれどそれって面白いのかな。癒されたりするのかな。

うーん、謎だ。

さてこの店には「しいな」という女の子(もといラブドール)が在籍している。


f0013495_22255914.jpg





f0013495_22261915.jpg




f0013495_2034993.jpg




エエエェェェェェェェェェェ(゚Д゚)ェェェェェェェェェェエエエエ

気持ち悪すぎるんですけど。

2Dの萌え系の子が3Dにおこされるとこんなに違和感あるもんですか、そうですか。
ありがとうございます。


ところで、オリエント社、ゲーム業界、いわゆるエロゲの方にも進出しているらしい。
Le chocoというゲーム会社とのコラボらしいが、、、(アダルトな内容を含むホームページですので18歳未満の方の閲覧はお断りのようです。あしからず)。

「あなたは人形である彼女らと、どう接していきますか? プレイヤーは、普通の会社員であり、兄であり、調教師…
最初の選択肢で、プレイヤーは自分の運命を選択することになり、その運命を歩むことになります。 しかし、変わり行く運命の中でただひとつ変わらない事があります。
それは、あなたの相手が人形であるということ。
そして、その人形たちは魂を持ち、あなたと接することで様々な運命を歩んでいきます。 果たして彼女たちは、人と同じ生き方を選べるのでしょうか」



これはそのゲームのプロローグだが、そういう設定はどうでもいい。
問題はこのゲームの値段。

●セット内容●
・『CANDYGIRL』ゲーム本体(税込7,140円相当)
・プチジュエルF標準セット(税込620,000円相当)
・プチソフト(シリコン製頭部版)(税込170,000相当)
衣装 :スクール水着・体操着・ロングメイド(税込34,000相当)
おまけ:予備ウェーブホール・ヘアケアセット・ポスター他(税込30,000相当)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【合計:¥861,140】







いろんな意味ですごいですよね。
ゲームを買ったら女の子がついてくる。

SFのような世界がすぐそこまで。


けれど、このラブドールの進化は人間の種の保存を根底から狂わせるかもしれませんね。
ロボットの技術とラブドールとがうまく同化した日には、、、。


こわいこわい、現実におこりそうなコワ〜イ話でした。

ためになったぞと思ったら投票
[PR]
by jai-guru-deva | 2006-02-13 20:43 | 今日知る現実