<   2006年 10月 ( 3 )   > この月の画像一覧

安土城 登城編。

前回に引き続き安土城のお話。
前回のエントリはコチラ

信長の館を後にし、また自転車をこいで5分ほど。
安土山に到着。

安土城。友達に入ってきたと言うと、
「え?残ってんの?」
とみんな口をそろえて言いますが、もちろん天守は残ってません。
しかしその城郭は石垣やら石段やらを含め400年の時を越えて残っているのです。
建物はもちろん残ってはないのですが、建物「跡」は残っているため、往時を偲ぶのはそんなに難しい話じゃありません。

安土城は廃城後400年間いわばほったらかし状態だったために近年の整備が入るまでは、遺構のほとんどが土に埋もれていたそうです。しかしそのような状態でも石垣はほとんど崩れずその形をとどめ、僕たちにその姿を見せてくれているところから、当時の土木建築技術の水準が窺い知れます。
1989年から、20年計画として安土城の調査、修復、整備が続けられています。
なのでやはり大手道なんかは今はすごく綺麗なんですが、整備が入るか入らないかくらいの頃にいった人は、草木が茂っていてほとんど森のような状態だったと言ってました。


よし、では登城しましょう。

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大手道前。
何かものものしい雰囲気を感じる。


「大人500円」


やっぱりかー。


山に入るのに金を徴収するとは。
徴収するのは「總見寺」
總見寺については後で詳細を書くとして、まあ、料金がかかることくらい知っていましたさ。調べましたよ、そのくらい、事前に。

けれど、ここが料金制になったのはつい最近の、この9月からだそう。
タイミング悪いなあ。
それまでは、入山、下山自由だったため、お金の心配も時間の心配もなかったらしいんですが。
いまは5時ごろには閉められちゃうそう。。。
しかも5時「ごろ」ってのがミソで、どうやら明確に決まってないらしい。要は住職のサジ加減ひとつなんだそうな。5時より早まるときもあるし5時を過ぎても入れちゃうこともあるらしい。
なんてストレスのたまる。。。。

ともかくも、安土城と總見寺の保存のため、と思って払って入ります。


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入ってすぐ、大手道です。
整然とした石段。ここを信長はもとより、その家臣たち歴々が紛れもなく、確実に日々使っていたんだと思うと感激です。
心は安土桃山時代へ飛んでいきます。

向かって左側が羽柴秀吉邸跡、対して右側が前田利家邸跡といわれています。
後の太閤豊臣秀吉も、加賀100万石の祖、前田利家も未だ信長の配下だった時代。
織田信長ってやっぱすっげー。


さて、總見寺によって立てられた看板には
「蜂やマムシがいます。山に入るのは自己責任で」
との条項も。
コワ。

と思ってたら足元に、にゅるっと何かが動く気配。

「ひっ」

と息を呑んで見てみると

トカゲでした。

いやあービビらせんなよー。
トカゲはそんな嫌いじゃないんだけど、改めて見ると動きがキモい。速いし。爬虫類のクセに。


気を取り直して。

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少し崩落した石垣もあります。これはこれで、400年の時の重みが知れてクール。

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まっすぐ続いた大手道も最初のカーブにはいります。そのあたりから、入山口を写す。


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大手道に面して建つ現在の總見寺。
「現在」のというのもわけがあるけれど、それは後ほど。

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「石仏」
安土城の石段のいたるところにこの「石仏」を見かけます。
これ、なんだかわかりますか。

なんだかも何も、読んで字のごとく「石仏」。
つまり、もとはどこかにあった、石に彫られた御仏。

信長はあろうことか、そんな近隣の御仏を回収し、石材として扱い、あえて石段という人々が日々踏んでいくところに使っているのです。
いまでさえ、この罰当たり!って思うのに、当時としては相当なインパクトを持ってたんじゃあなかろうか。いやあ、ぶっとんでますね、ほんと。
けど、これ、無神論者の信長には何てことなかっただろうけど、ほかの武将たちはどう思ったんでしょうねえ。
たぶんあえて、踏むようなことはなかったんじゃないかと推測しますが。けど、かなり磨耗している石仏もちらほら。あやまって踏んだら気まずいよなー、きっと。

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ほんといたるところに石仏が。

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こちらは武井夕庵(せきあん)邸跡といわれているところです。夕庵は信長の祐筆で、優れた文官として伝えられています。
戦国時代というとどうしても華々しい槍働きに注目が集まりがちですが、こうした能吏が裏にいたからこそ、というのを忘れてはいけません。


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またすこし登っていくと織田信忠卿の邸跡があります。
信忠は信長の嫡男で、この頃にはすでに信長から家督を継いでいて、織田家の本国、尾張と美濃を領土として、岐阜城をその居城としていました。
信忠の才能については評価が分かれますが、僕は信忠は立派な二代目になれたはずだと思います。対武田線でもそれなりの活躍もしています。
本能寺で逃げようと思えば逃げられた場所にいたにもかかわらず、信長とともに死んでしまうあたり、その潔さは立派なものだといえます。
ただ、もしも信忠が生き延び、再起を図っていたら、あるいは織田家はその後の急激な没落もなく、ともすると秀吉の時代はなかったのかも。とも考えられますが、信忠が生き延びることで逆に織田家が大混乱に陥ることもありえるし、、、。
まあ、史実ほど練られた筋書きはないので、やっぱり「もし」なんて考えるだけ不毛です。


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左が織田信澄邸、右が森乱丸邸跡。

織田信澄は信長にとっては甥にあたる人物で、才気はあるが、少し粗暴なところもあるといわれる人物。別命を津田信澄。
父親は信長の弟、信勝(小説などでは信行とされる)で、実はこの信勝、信長の清洲城主時代、まだ尾張一国すら統一できていない頃に信長に対し謀反を起こし、最初は生母の懇願で許されたものの、再び叛旗を翻しそうになったために信長に謀殺されたという人物。

本能寺の変の際、摂津にいた信澄は、混乱の中、信長の息子信孝と重臣丹羽長秀によって攻められて殺されてしまいます。
実は信澄の妻が明智光秀の娘であり、信澄の父親が上記のとおりかつて信長に殺されていたという事実のために、光秀の謀反に加担したと疑われたためだとか。
これはまったくの冤罪だったようですが、信澄が粗暴な君主であったため信澄の支配下の領民たちは信澄の死を喜んだといいます。


森乱丸は有名な信長の小姓。
「蘭丸」の字のほうが有名だけれどどうやらそれは、江戸時代に当てられた字らしく、一次資料には「森乱成利」と出てくるようです。
成利というのは諱です。


さて信澄、乱丸の邸を越えるといよいよ城の中枢部に入っていきます。
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黒金門跡。
この狭くなった場所に門があったようです。この内側はもう、信長の側近や一族しかはいることのできなかった空間です。
近年の研究ではこのあたりの回廊には天井を張っていた可能性も示唆されています。なのでここを通る人たちはまるで地下道を行くような感覚だっただろうと想像されているようです。

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本丸跡。
この本丸跡の礎石から、建物の平面図を起こすと、御所の清涼殿とそっくりになるそう。
信長は何度か天皇の安土行幸を画策していますが終に成功しませんでした。
信長は天皇をこの擬似清涼殿に宿泊させ、自身はそれよりはるかに上に立つ天守に入ることで天皇に対する信長の優位を示そうとした、とも言われています。

僕が現在大学で行っている信長にかんする演習でゲストとして谷口克広先生がいらっしゃったとき、学生からこんな質問が出ました。
「信長が天守から天皇の泊まる本丸を見下ろすことで信長の優位を示したといわれていますが、それについてはどうおかんがえでしょう」
すると先生はこう言われました。
「考えても見てください。いくら天皇がくるからってすでにある安土城より高い建物が建てられますか?無理ですよ。そういうところから、信長が朝廷をないがしろにしたとか、それをもって本能寺の変は朝廷陰謀説だとかおっしゃる先生もいらっしぃますがナンセンスです」
爆笑です。そのとおりだと僕も思います。


さていよいよ天守へと向かいますよ。
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天守への石段。
なにやら神々しい光が。

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そして天守跡。
礎石とまわりの石垣のみが残る。。。
ここは地下一階に当たるところ。


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真上を見上げて往時を偲ぼうとするも、ただ、ただ、青空ばかりが広がる。
天守の様子はあくまでも推定でしか復元できないようで。
というのも安土城に関する資料が乏しすぎるそうです。
前のエントリでも書いたように「信長公記」「日本史」にその記述はあるもののビジュアルはわからない。
加賀藩大工に伝わる「天守指図」というものを安土城の天主の設計図として、内部は階層を貫く吹き抜けで、地階に仏塔があったなどといわれてはいるものの、そもそもそんなに信頼できる資料じゃないらしい。

そこで決定的なのが、フロイスの記述に出てくる、狩野永徳による「安土城図屏風」。
フロイスは、信長はお抱えの絵師狩野永徳に安土城の様子を詳細に描かせたと書いていて、しかもそれを
「自らの権威をヨーロッパに知らしめるため」
本国に帰還する宣教師ヴァリニャーノに持たせ、ローマ法王に献上させたと書いています。
ちなみにこのときの遣欧使節が有名な「天正遣欧使節」なんですが。

その「安土城図屏風」。
フロイスの記述が確かなら現在もローマ教皇庁にあるはずだ、ということで、何度か捜索を試みたものの未だに見つかってないのです。




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天守跡から見下ろす城下。
当時の安土山は三方を琵琶湖の湖水に囲まれていたようですが、現在は干拓されてご覧のとおりの田園風景。

もしよければ動画もどうぞ。
安土城天守台から


天守台の様子もよければ。
安土城天守台


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天守台の石垣を下から。
落城時の猛火によって石垣が焼けてしまっています。


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二の丸跡。

本能寺の変のあと、留守居役として留守を守っていた蒲生賢秀、氏郷父子は、信長横死の報を受け、いち早く信長の奥方、女中などを自身の日野城に逃がしました。
その後明智軍が入城。
山崎の戦いで光秀が敗れた際、逃げる明智勢が安土城にも放火したというせつがあるけれど、
明智軍が安土にいた時期と合わないよう。
ほかの説としては信長の次男、信雄がテンパって燃やした説。
これは当時の宣教師が「彼(信雄)は暗愚のために放火した」というように記述しています。

誰が燃やしたにせよ、安土城は完成からわずか3年で燃えてしまったのですが、その後もしばらくは城としての機能を保ったようです。
その、本能寺の変後の安土城の中心がここ、二の丸。
織田信長の孫で、信忠の嫡男織田秀信が、清洲会議で織田家の後継者とされてからここを居城としたそうです。
しかし1585年、豊臣秀次による八幡城の築城により、安土城は廃城とされました。

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信長の廟。
織田信長の遺骨は見つかっていませんが、山崎の戦いで明智光秀を下した羽柴秀吉が、自らの威信発揚の場として信長の葬儀を主催し、ここに信長の遺品を葬ったようです。

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一番右が織田信雄の墓。ほか左から信雄の子高長、その子長頼、さらにその子信武の墓。
信雄は本能寺の変後、秀吉とともに信孝を滅ぼすが、秀吉が力をつけていくに従い不仲に。
徳川家康と組み、小牧長久手の戦いをおこす。
その後は秀吉に従い、江戸時代に至るまで二度の改易に合うが結局大和宇陀松山に領地をもらっいる。
宇陀松山織田家は明治まで家名を保った。
その藩祖4代の墓が改葬されて安土にありました。



信長父子の墓にお参りしたあと次は總見寺を目指します。
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先に現在の總見寺の写真を貼りましたが、もともとは違う場所にありました。

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總見寺につづく石段。

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總見寺境内。
總見寺は本能寺の変後も燃えずにずっと機能してきました。
住職はつねに織田家一門の者。

1854年に出火してほとんどの建物を消失。その後、現在の場所に寺を移したようです。
三重塔と楼門は残り、いずれも国の重要文化財。


總見寺は信長自らを神体として崇めるようにというコンセプトの元につくられたといわれています。
この信長の発案を、ルイス・フロイスは
「悪魔にとりつかれたものの考え」
と嫌悪し、これ以降の信長を
「傲慢な君主」
と非難しまくっています。

信長自身は神も仏も信じないが、民はそうではない。
一般大衆の宗教に対する心理を利用した信長自らの神格化。
たしかに傲慢で不遜な態度だけれど、どこまでもスケールがでかい。

ちなみにこの總見寺。大手道から入ればこの寺の前を通ることはないけれど、百々橋口道から登城する場合絶対にこの境内を横切ることになります。信長は登城する家臣に参拝を強要したとも言われています。



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三重塔。
ほかの観光の方も写っちゃいました。

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總見寺からの眺め。


例によって動画もどうぞ。
總見寺境内から
信長の時代を偲べるものが残っていたのはうれしいですね。
信長も秀吉も利家も勝家も長秀も成政もこの三重塔をみたんだと思うと。。。。


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境内を後にして下っていきます。
總見寺の門が見えてきました。
こういう木漏れ日のなかにたたずんでいる感じが素敵。

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門を正面から。
仁王さんもいます。


總見寺を辞すると、そのまま、百々橋口から出れるのかとおもったら閉鎖されていて、あんまり整備されてない道をマムシにおびえながら大手道まで帰りました。


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半日お世話になったレンタ屋のチャリ。

最後に記念撮影をしておきました。
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by jai-guru-deva | 2006-10-31 22:57 | 今日知る旅行

安土城。

彦根城の日記を書いたのが3日。
いや、やばいですねこの更新頻度。
月2のペースですか。

安土城のレポートだけれど行ってからすでに1ヶ月経ってしまいました。
ただ、その間いろいろと資料を読んだりしたので、その知識を結集させて書いていきましょう。

今回は織田信長や安土城を語る上では欠かせない一次資料である、ルイス・フロイスの「日本史」と太田牛一の「信長公記」を基にして書いていきます。


さて。
彦根城を後にして僕は安土に向かいました。
安土駅はそりゃあもうちっちゃな駅ですから特急やら快速なんて止まりません。
各駅停車です。



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で、降り立った印象は、僕の地元の駅に似ている!というくらい田舎。JR西日本というのもあって駅の外観なんかはほとんど一緒。


ただし、

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駅前で信長公がお出迎え。
なんかあんましかっこよくない。。。


安土城のある安土山や、資料館とかがある場所は駅から若干離れているために観光客は普通自転車を借りていくことになる。

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いかにも、みたいなレンタサイクル屋が並ぶ。
そのうちの一軒に入ってお借りする。
もう午後3時頃とあってあまり観光客もいない。

レンタサイクル屋でインターフォンを押すと、エプロン姿のおばちゃんが出てきた。
安土に来るのは初めてだと言うと、おばちゃんは地図をくれてそれに目印なんかを書き記しながらいろいろと説明してくれた。
安土城関連の資料館をまわって安土城をまわるとだいたい2時間くらいのコースやね、ということで
「じゃあ、とりあえず2時間ほど借ります」
というと
「うん。やけんどたぶんそのころには畑に出とるわあ、はっはっ。まあおらんかったらそのまま置いといてください」
とのこと。
のどかな田舎のおばちゃんにほっとする。


それでは自転車に乗って行きましょう。

現在の安土

左側にちょこっと見えるのが安土山。このときにはどの山が安土山なのかわかってなくてちゃんと撮れてませんね。。。
しかしかつての栄華を偲びようもないくらいの一面の田園風景。
しかし逆に言えば、この田園風景から安土の地がどれだけ豊穣な土地かがわかる。

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安土山です。


僕はまず、安土文芸の郷というところにある「信長の館」を目指すことに。
ここには安土城の5階と6階部分を原寸復元したものがあるのです。
この安土城はスペインのセビリア万国博覧会において、日本館のメインの展示として造られ、博覧会会期中でもっとも多い入場者数を記録したものだそうです。
それを解体して安土に持って帰って組みなおしたのがいまの信長の館にある安土城。

詳しくはホームページをどうぞ。
信長の館


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外観はこんな。
これ、実際に見るとデカイ。
このなかにすっぽりと安土城の5、6階部分が入ってます。
5,6階の二層だけでこの大きさだから全体像は、、、、
推して計るべし。
天下に号令するにふさわしい規模の城であったことは想像に難くはないでしょう。



では、入ってみましょう。

中には安土城の全体の推定復元のものがおいてあります。 

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「天守」という概念すらない時代の城。今見ることのできるどの城に比べても圧倒的に優雅で奇想天外な城。信長にしか描くことのできない、天守の姿でしょう。独特の美意識、センスには本当脱帽です。

では復元された安土城を見てみましょう。
「信長公記」の原文を引用しつつ写真をどうぞ。
(※信長公記の記述によると5階→6重め、6階→7重めとなる。これは1重めとされている場所を僕は地下1階と捉えているため)



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六重め、八角四方あり。外柱は朱なり。内柱は皆金なり。

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釈門十大御弟子等、釈尊成道御説法の次第、御縁輪には餓鬼ども、鬼どもかかせられ、御縁輪のはた板には、しゃちほこ、ひれうをかかせられ、高欄ぎぼうし、ほり物あり。

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上七重め、三間四方、御座敷の内、皆金なり。そとがは、是れ又、金なり。

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四方の内柱には、上龍、下龍。天井には天人御影向の所。御座敷の内には、三皇、五帝、孔門十哲、商山四皓、七賢などをかかせられ、

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ひうち、ほうちやく、数十二つらせられ、狭間戸鉄なり。数六十余あり。皆、黒漆なり。御座敷の内外柱、怱々、漆にて、布を着せさせられ、其の上、皆黒漆なり。



とまあ、こんな感じで、この世のものとは思えないほどの美しさを現出していたことが想像できます。
しかしこの安土城、大きすぎて写真に収まりきりません。
なので動画でどうぞ。

安土城


さらにここにルイス・フロイスの記した安土城を見てみましょう。

(城の)真中には、彼らが天守と呼ぶ一種の塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。
この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている。
外部では、これらの層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは日本で用いられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上階はすべて金色となっている。



さて、「信長公記」の太田牛一は信長の祐筆的な存在であり、安土城築城に関すること、また安土城内部のことも熟知した、詳細な記録をつけいている。
対してフロイスは安土城の内部事情にはおそらくそこまで詳しくないだろうけど、自らが見たままを率直な感想を持って記録していることが伺える。

さらに太田牛一は、彼がどれだけ自分の崇高な意思に基づいて軍記を書いたとしてもやはり権力者の検閲はさけられないために、どうしても信長へ賛美を送る文になるのだが、フロイスにはそのような圧力はない。そもそも「日本史」は本国ポルトガルに日本での布教状況を伝えるために編纂されたものであるため、事実を率直に連ねる必要がある。そこにはもちろん、日本の権力者に対する遠慮はない。
にも関わらず、フロイスは安土城をここまで礼賛している。素直に感動を示している。
やはりこれからも、安土城がよほど美しい城だったというのが見えてくる。


さて、信長の館、これだけではありません。

アドレナリンぶっしゅーな宝物があるのです。

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まずこれ。
宣教師から信長へ献上されたお菓子入れ。
中には金平糖が入っていたそうです。


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そしてこれ!
信長公の甲冑。
南蛮風の甲冑とマントという出で立ちのイメージが強い信長公。
だけど僕は本物を見たことがなかったので、おしっこもれそうになりました。


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ほら、胴には十字架が刻まれてあります。
もちろん信長はキリシタンではありませんが。
左にあるのは信長が愛用していたという指揮棒。

なんだろう、やっぱり遺品ってすごい。
信長をこんな近くに感じることができたのは、本当に感動だし、幸せでした。
僕の中では織田信長という人物が唯一無二の英雄であるというのも、この遺品をすごく貴重なものに見せているのでしょうが。
しかし格好良い。


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そして極めつけ。
南蛮の帽子をモティーフに作られた兜。

これ!
長篠合戦図屏風に描かれたあの兜じゃないのか?!
ああ、その絵がいま手元にないのが残念。
馬にまたがる信長の前に、家来の持つ、この兜がたしかに描かれています。

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うーん。
またなにか機会があったら長篠合戦図屏風見てみてください。



長くなったので二回に分けますね。次はいよいよ、安土城に登城してきます。
ではまた。
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by jai-guru-deva | 2006-10-29 01:36 | 今日知る旅行

彦根城

さて、近江国にやって参りました。
目的は彦根城と安土城。

まあいつもの道楽城廻りですね。

長文になりそうですがお付き合いいただければ幸いです。

まずは彦根城。


とりあえず、彦根城の経歴、築城の背景から見ておきましょう。

彦根城の背景を探るには佐和山城のことを無視できません。
というわけで、最初に佐和山城の歴史を紐解きましょう。


[佐和山城]

佐和山城は現在の彦根にあった城で、位置は彦根城のすぐお隣。ほぼ同じ場所と言っていいです。
そもそもは鎌倉時代までさかのぼれるようですが、実際に歴史の表舞台に現れるのは戦国時代になって。
当時、佐和山城は近江を治めていた浅井氏の支配化にありました。城主は磯野員昌。
磯野員昌は武勇で知られた人で、有名な姉川の戦いでは一時、織田軍本陣深くまで突撃し、信長をヒヤリとさせたともいわれています。
織田家と浅井家が敵対するなか、磯野員昌の佐和山城も織田軍の猛攻を受け、羽柴秀吉の奇策にあって員昌は降伏(1571年)。この後、城は織田家の丹羽長秀に与えられます。
ちなみに員昌はその武勇を信長に認められ、織田家の臣下となり、重用されますが、その7年後、突然、信長の勘気を被って所領没収のうえ、高野山に追放されてしまいます。

さて、丹羽長秀の支配下にあった佐和山城は1582年の本能寺の変で信長が横死を遂げたために、その後の清洲会議で、山崎の戦いで戦功を挙げた堀秀政に与えられます。

堀秀政は信長の近習として活躍し、槍働きも事務も何でもこなせるオールマイティな人物であったため、「名人久太郎(久太郎は秀政の名)」という異名もとっていました。
その才能は秀吉にも愛され、秀吉は小田原攻めの後には堀秀政に関東をやろうとしていた、と「名将言行録」にはあります。
しかし残念ながら堀秀政は小田原の陣中で40歳手前の若さで病没してしまい、北条氏滅亡後実際に関東を得たのは、ご存知のとおり徳川家康ということになります。
「名将言行録」は明治初期に戦国時代の名将とされる人々にまつわる数々の逸話を集成したものなので、信憑性に乏しい逸話ももりこまれていますが、もしもこれが事実で、堀秀政が天寿を全うできていたらまた歴史は違ったかもしれませんね。

さて、その後、佐和山城は堀家の転封で、秀政と同じく山崎の戦いで戦功のあった堀尾吉晴を城主に迎えています。

その後、1590年頃、豊臣五奉行筆頭の石田三成が城主となり、城を大改築。山頂に3層とも5層ともいわれる天守を持つ名城へと変貌をとげます。
その城の立派さから
「治部少(三成の官職)に過ぎたるもの2つあり、島の左近と佐和山の城」
とはやされました。
島左近は、三成の有力な参謀で関ヶ原で壮絶な討ち死にをとげています。


石田三成は1600年、関ヶ原で敗戦、斬首となり佐和山城には、徳川家康配下の井伊直政が入城することになります。
そして、これより彦根藩井伊家がスタートすることになります。



[彦根城]

佐和山城を得た井伊直政は、「井伊の赤備え」または「井伊の赤鬼」と畏怖される勇猛な人物で、若くして家康の寵愛を受けて徳川四天王の一人として活躍した人物。
もともとは今川家の家臣の家で、祖父は桶狭間で主君、今川義元ともに戦死。父は義元の子、氏真から謀反の嫌疑をかけられて殺されてしまったため、幼少時は不遇をかこっていたようです。

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(彦根駅前の井伊直政像)

しかし1575年に家康に見出されて以来、めきめきと台頭し主に対・武田戦線で活躍。
武田氏滅亡後は武田の旧臣の多くを部下として編入され、武田の四名臣の一人、山県昌景の赤備えを模して自らの軍を赤備えで統一したため、「井伊の赤備え」が誕生しました。
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(井伊直政使用、直孝所用甲冑。ブレててすいません。。。)


井伊直政は武功によって徳川家中でぐんぐん出世しましたが、そのあまりにはやい出世は同僚からの妬みの対象となり、非難中傷をうけたとされています。


関ヶ原の合戦で直政は、逃げる島津義弘を追撃し、島津軍の果敢な抵抗にあい、銃撃されてしまいます。
戦後、大戦の功績から、石田三成の旧領と佐和山城を得ますが、直政は石田三成の城であったことを嫌い、また、佐和山の地で善政を敷き、名君とされた三成の威光を払拭する目的から、向かいの彦根山(金亀山)に新たに城を築く計画をたてます。
しかし、関ヶ原で受けた古傷がもとで、城主となってわずか2年後、1602年に41歳で亡くなってしまい、その計画は跡を継いだ直孝によって実現されることになります。

直政は彦根藩初代藩主ということになっていますが、彦根城の落成を見ることなく亡くなってしまったのですね。


次代の直孝は、次男ではあったものの、父に似て勇猛で大坂の陣などで戦功があったこと、兄、直勝が病弱だったことなどから家康の命で、兄を差し置いて彦根藩主となりました。
彦根城は彼のときに落成、以降現在に至るまで、姫路城にも勝るとも劣らない縄張りを伝え残し、天守も現存する数少ないものとして、国宝指定をうけています。


さて、それではようやくですが、彦根城に参りましょうか。。。



彦根城に行くとまず、

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「ひこにゃん」がお出迎え(笑)
案外かわいいじゃないか。
ひこにゃんも赤備え。勇猛です。猫のくせに。
ちなみに来年の2007年が築城400年ということなのでカウントダウンしてます。
祭典のメインキャラクター。ひこにゃん。


チケットカウンターでチケットをもらったら、まずは博物館から回ってねと受付の方に言われたのでそのとおり、博物館に行きました。
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これは井伊家の軍旗。実際に大坂の陣で使用されたもの。
すげー。
となりのまたしても赤い甲冑は井伊直孝が初めて鎧をまとう儀式で用いられたものだとか。現在で言う子供の日みたいなものかな。


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城内すぐに馬を止める馬屋が現存する。
こうした城内に馬屋が現存するケースは唯一だそう。


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さて、石段を登り、登城スタート。



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長い。。。

さて、お城を登ったことのある方ならわかると思いますが城の石段ってすごく登りにくいですよね。なんか、幅がマチマチで。

これにはちゃんとわけがあって、敵に攻められた場合、敵軍の進軍スピードを少しでも削ぐための工夫のようです。
なるほど。

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石段を登りきると、美しい「廊下橋」と呼ばれる橋が。

今回、僕は彦根城に来たのは初めてだったんですが、この廊下橋を見た瞬間に、何か見たことある風景だなあ。。と、デジャヴにおそわれました。
初めて来たことは確かなんだけど、なんでこんなに覚えがあるんだろう??
こんな橋、見たことも初めてだと思うんだけどなあ。。。

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うーん。
何度見ても不思議。

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鐘の丸跡。
ここが鐘の丸といわれるのは、以前に時報を鳴らす鐘があったのだが、配置が悪くその鐘が城内全体には響かなかったために移設されたため、こう呼ばれています。

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鐘の丸の反対側がさっきの廊下橋。先にある櫓が天秤櫓。

天秤櫓の石垣は向かって左側と右側とで違っています。

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左側

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右側

左側のほうが崩れちゃったらしく、立て直された石垣で、年代による石垣の工法の変化を見れて面白いですね。

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天秤櫓を出たところ。太鼓丸と呼ばれるところ。
名城のニオイがぷんぷんするぜ。
ちょーかっこいい。

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その太鼓丸の一角に、さっきの鐘の丸から移設された鐘が。
いまでも定時に時報を鳴らしています。
観光客が勝手に鐘をついたら一大事なので、もちろん僕は鳴らしてません。

さてその先の太鼓櫓をくぐると、、、


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うひょー
天守に到着。

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こうして見るとこじんまりとしたかわいらしい天守。

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けど実は案外重層な造り。

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うん、かっこいい。

では、内部に入ってみましょう。
現存天守に入るときは一度深呼吸をすることにしています。
興奮で息が詰まってしまうので。リラックスリラックス。


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現存天守は基本的にどこもこんな感じ。印象は犬山城に似ているかなと。
姫路城はもっと薄暗かったかな。

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地下からの入り口。
現在地下は公開されていないため、真っ暗。ぽっかりあいた穴のようです。

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階段はご覧のとおりめちゃくちゃ急。
バリアフリーもクソもない。
死ぬまで健脚でいたいものだと願いながら上ります。城に来れなくなっちゃうもんね。
もっとも大阪城のような大規模再建天守にはエレベータがついてますが(しかしあれも天守台までの石段なんかはどうするんだろう)。

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城主の気分で、城から望む琵琶湖。
風光明媚な彦根城は、琵琶湖八景のひとつにあげられてます。


さて、内部の動画です。
天井の梁にも注目してみてください。

彦根城天守内


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そとにでて、月見台。
ここには月見櫓があって、詩歌会やらお月見やら、城主たちが楽しんだ場所です。
琵琶湖に浮かぶ月はさぞ美しいことでしょう。


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太鼓門をくぐって外に出ましょう。


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行きとは違ったルートで外に出れば、大手門橋に出ます。
ここのお堀には黒鳥が飼育されていて観光客からの餌をもとめています。



彦根城の旅はいかがでしたか。
今回はまだ終わりません。


彦根藩といえば井伊。
井伊家は徳川幕府でも譜代衆筆頭ということで歴代藩主からは幾人もの大老を輩出していますが、中でも有名なのが幕末の大老井伊直弼。

井伊直弼といえば、安政の大獄やら、勝手に開国するやら、水戸の徳川斉昭ら、口うるさい人たちはことごとく、謹慎処分にするやらリストラするやらでそれはもう悪役の代名詞のような存在で、僕もそんなイメージでしたが、いやいやどうして、めちゃくちゃデキメンやないか、ということがわかってしまいました。

それがわかるのが、彦根城外に残る「埋木舎(うもれぎのや)」という小さな草庵。
直弼はそもそも、14番目の男の子として生まれたため、当然藩主にもなれるわけがなく、ほかの名家への養子の口もないという不遇の状況で育った人で、なんと成人して17歳から32歳まで15年間も年に300俵というまさに捨扶持をもらいながら、表面上、隠居したおじいちゃんのようにひっそり暮らしていました。
そのときの住まいがその「埋木舎」。

「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」

「土に埋もれた木の ように世捨て人同然に暮らす非情の身の上だが、わたしはこのまま埋もれてはいない」

との激しい情熱を内に秘め、住まいを「埋木舎」と名づけたようです。


↓埋木舎の様子。
埋木舎

直弼はここで、文武の研鑽に励みそれはそれは努力をしたようです。

そして、急転直下1850年藩主となり、15年間の学問の成果を遺憾なく発揮、藩政改革を成し遂げ名君とされました。
1858年には徳川幕府大老として大輪の花を開花させるのですが、その行き過ぎた政策は特に尊皇攘夷派から恨まれ、ご先祖様である井伊直政の異名と同じく「赤鬼」と呼ばれました。

ことに、安政の大獄への反発はひどく、とうとう桜田門外で水戸浪士の襲撃にあって亡くなります。

埋木舎次代には儒学、国学、曹洞宗の禅、書、絵、歌、剣術・居合・槍術・弓術・ 砲術・柔術などの武術、茶の湯などもう思いつく限りのことはほとんどやりつくしていて、特に茶の湯では一派を確立してもいます。

いや、すごい人だなあ。



しかし直弼死後の彦根藩は幕末の波に翻弄され戊辰戦争では、緒戦で散々に負け、先祖代々からの赤備えを戦場に捨てて逃げ帰ったといわれています。
その後、譜代筆頭にもかかわらず早々に官軍側に寝返り幕軍の士気を大いに下げてしまいました。



大河ドラマの第一回は井伊直弼を主人公にした「花の生涯」だったというのもはじめて知りました。

ちなみに。
彦根市と水戸市は、明治百年を契機に歴史的わだかまりを超え、昭和43年(1968年)に「親善都市」提携を行ったようですよ。





次は安土に向かいましょう。


ではまた。
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by jai-guru-deva | 2006-10-03 02:19 | 今日知る旅行