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東京国立博物館。

今日はとある資格試験の予備校に行きました。そのあと、普通は大学の授業があるのですが、よく考えると今日はみどりの日なので休講だと知り、せっかくだから、と国立科学博物館でいまやってる「ナスカ展」にでも行こうかな、と思い立ち、上野に向かいました。
けれど世の中はゴールデンウィークの初日。
人多いんだろうなあ、と思っていたら予想通り、ナスカ展、人大杉。
入場制限で45分待ち、とのこと。
雨も降ってきたので、
「何もこんな国民あげての休日に行くこともないだろう、学生の特権時間である、平日に行こう」
と、今日はナスカ展はあきらめました。
そのまますごすごと帰るのもなんだかなあという気がしたので国立博物館を覗くことにしました。というのも、先週くらいに兄が行ったらしく、常設展が素晴らしかった、と言ってたのを思い出したのもあって。

ところでいま東博の企画展は
「天台宗開宗1200年記念 特別展 最澄と天台の国宝」

企画展→常設展とまわることにしました。

まず興奮したのがこれ。

東京国立博物館。_f0013495_19455448.jpg

「聖徳太子及び天台高僧像10幅のうち最澄/平安時代・11世紀兵庫・一乗寺蔵」

かの有名な最澄の肖像。
うおー。すげー。
ってなります。ふつーに。
有名なものにだけ、すぐ興奮するのって俗物っぽいけど、イインダヨ。グリーンダヨ。
二十年間生きてきて、十年間写真でしかみたことなかった最澄さんが、いま目の前にいらっしゃるのです。ようやく会えたわけです。


天道、人間道、阿修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六道を描いた「六道絵」は残酷だけど楽しかった。というのは、別に僕がグロだとか猟奇的嗜好を持ってるとかじゃなくて。
当時の教訓が、難解な文字を読み解けなくても、絵を見れば分かってしまうというところ(これはどの絵巻物でもそうだけど)や、残酷なことをされてるのにも関わらず、絵はコミカルなタッチだったりするところなんか、なぜか微笑ましくみえてしまう。
「オグリッシュ」みたいなグロサイトで、おえ、もうダメ、吐く。
的なものじゃなくて、
「こんなことしたら死後、こんな酷い目に遭うんだぜ、気をつけなよ」
とやさしくお説法されてるみたいな気分になります。

水晶舎利塔も綺麗でした。言わずと知れた仏舎利を入れるものなんですけど、完璧に透明な綺麗な水晶。スケスケでした。鎌倉時代の作ということですが、それにしてはかなり保存状態がいいように思えました。

まだまだいっぱいあるけど僕なんかがこんなとこで書いたのを読むよりも実際行ってみなきゃわかんないもんだろうから(特に仏像なんかは)是非、行かれてみては。

東京国立博物館


で、常設展。
まず考古学展示室。
ここもすげー面白い。

銅鐸やらなんやらかんやら。土偶や埴輪もカワイイ。時代によって形が全く違うのも興味深い。
あと、鏡なんだけど、有名な三角縁神獣鏡とかそういう中国の輸入品から、古墳時代には日本産のモノをつくりだしてだんだん日本製にシフトして行く過程において、最初は中国の鏡を複製していくんだけど、どうやら当時の日本人にとって、中国鏡の文様である神獣の思想的背景や文字の意味なんかがいまいち理解できていなかったらしくて、そういう神獣や漢字が記号化していってしまいます。その記号も呪術的な意味合いをもたされた模様になっていってるので面白いのですが、中国製とくらべるとやっぱりどこか安っぽい(笑)。細緻な中国製とおおざっぱな日本製というふうに見えてしまう。

ここの一番の見所はやっぱりこれか。
銀象嵌銘大刀(ぎんぞうがんめいたち)
有名なヤマトタケルの話を書てある剣。
「治天下獲□□□鹵大王世」に始まる75字でつづられたやつです。
こういうのみるとやっぱ東博すげええ、てなります。

さて考古学展示室を後にして本館に移ります。
特集陳列「上野公園の130年」 で上野公園と博物館学の歴史について学べます。
現在上野公園にある西郷隆盛の銅像の設立建白書とか超面白い。
それによると始め、西郷どんの像は皇居あたりに建てられることになってて明治天皇の勅許ももらってたらしいんですが、当時の華族たちがそれに猛反対して、いまの場所に落ち着いたんだとか。
その建白書なんかに「故・西郷隆盛」の「故」て部分がなんだか時代を感じる。ああ、西郷さんって生きてたんだなあって(当たり前だけど)。僕の中じゃあ歴史上の人物なので。

上野の絵を描いた錦絵的なのが多いなあ、と思ってみてみると
「東京名所之内明治十年上野公園地内国勧業博覧会開場之図」
というものは河鍋暁斎 が描いてたりします。びっくり。

野間清六さんが描いた
「くちなわ物語(正倉院御物展観絵巻)」
では、昭和8年(だったっけ?詳しい年を失念)頃に東博で開催された正倉院展のことを描いてあるんだけど、そのときの盛況ぶりがすごくて、上野公園中ひとひとひとの大行列。
中には「ギョウレツノ尻尾ガミエズトホウクレル」人も説明書きつきで描かれていて面白かったです。

あと、戊辰戦争のウチのひとつ、上野戦争の際に放たれた砲丸がめり込んだままの木材が展示されてあって、幕末動乱の生々しい一面もみてとれました。

今日の展示の中でも刀剣の展示はことさら燃えました。


古備前国包 銘 国包

備前国宗 銘 国宗

長船勝光・治光 銘 備前国住長船次郎左衛門尉勝光/子次郎兵衛尉治光一期一腰作之/佐々木伊予守(長い……)


なんかは実家のよしみもあり、手放しで感動してしまうのですが、特に

相州正宗(名物 観世正宗)

伯耆安綱 銘 安綱 (名物 童子切安綱)


は、もう感涙ものです。(いずれも国宝)
まず、正宗。
正宗は鎌倉時代末期〜南北朝時代の相模国の刀工。
正宗はほとんどの作品に銘を入れないのが特徴で(いわゆる無銘刀)この国宝のものも無銘刀。
そのため古くから贋作が出回っているそうです。
その代表的な笑える逸話として、関ヶ原合戦の前、西軍の石田三成はより多くの諸侯を味方につけようと、刀工に正宗の贋作をつくらせまくって、手当たり次第に贈与したとか。また、徳川家康もそれに対抗して、これまた正宗の贋作をつくってばらまいていたそうです。
ウラ関ヶ原ですね。
そういうこともあって今日でも贋作は多いとのこと。

けど、この刀、やっぱり国宝たるだけの風格を持っているように感じました。
素人になにが分かる?って言われそうですが、実際対峙してみると本当に、何か伝わるものがあるんです。刃文がどうだ、拵えがどうだ、と言う気はありません。たしかにそういう美しさが図抜けているから認められているのでしょうが、僕にはそういう知識ではなく、見た瞬間、直感で
「こいつはタダモノじゃねえ」
と思ったのです。
一見の価値ありです。

さてもう一刀の伯耆安綱
通称を童子切安綱
正宗が美術品としての一級品であるとするならば童子切安綱はまさに武力の象徴として一級品といえるでしょうか。
その逸話、所有者遍歴は他の追随を許さない押しも押されぬ「国宝」刀であります。

まず逸話から。
平安時代中期、大江山という山に酒呑童子という鬼が配下の鬼多数を従えて棲んでいたそうな。彼らは人をとって食っていたので、都の人々はたいそうおびえておったそうな。

そんな折も折。とある公家の娘が行方不明になってしまいました。
陰陽師、安倍晴明は犯人を酒呑童子であると特定。帝にお伝え申し上げました。
帝は
「もう放ってはおけぬ」
と、豪傑として名高い源頼光という人物に、酒呑童子討伐の勅命を発しました。
討伐に向かうことになったのは、源頼光とその四天王(渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光)、そして藤原保昌の6名(このうちの坂田金時というのがかの有名な金太郎さんの成長した姿)。
彼らは山伏に変装して、山に入りついに鬼の岩屋にたどり着きました。
鬼たちは頼光らを疑いますが、そこは頼光。弁舌で鬼を説き伏せて、自分たちも鬼の一味だ、と信じ込ませることに成功しました(この間、いろいろあるんだけど長いので割愛)。
すっかり信じ込んだ鬼たちは頼光一行を宴会でもてなします。
頼光はかねてより神の使いから賜った神酒を使って酒呑童子らをしたたかに酔わせてあげました。
宴もたけなわ。頼光は、配下を従えて、酒呑童子の寝所に忍び入りました。
酒呑童子は前後も不覚。頼光の抜いた刀に、一刀のもと斬られてしまいました。
家来の鬼たちも一網打尽に討ち取り、さらわれた娘達を救い出した一行は、帝より厚く恩賞を賜ったとさ。めでたしめでたし。


と、かなり大事なことまで端折ったのですが、だいたいこんなかんじで、酒呑童子という鬼を討ち取った刀というので以後、童子切という名で呼ばれたようです。
すげえはなしだ。

次に所有者遍歴(伝説含む)
坂上田村麻呂

伊勢神宮

源頼光

新田義貞

足利義輝

織田信長

豊臣秀吉

徳川家康

徳川秀忠

松平忠直

作州津山松平家



なんて嘘くさい遍歴(笑)
歴史に疎い人でも聞いたことある名前ばかりだと思いますがいかがでしょうか。

ちょっとだけ検証を加えてみます。
まず最初の坂上田村麻呂
史上初の征夷大将軍ですが、この人は平安初期の人。対して童子切は平安後期の作とされるのでこれはありえません。
伊勢神宮に奉納されていたのはあり得るかも知れませんが詳しい資料がないのでなんとも言えず。
ただ、源頼光が、酒呑童子という鬼を斬れという啓示を夢で受けて、伊勢神宮に奉納されてあった童子切を賜ったという伝承もあったりします。
まあとにかく、頼光はこの刀でもって酒呑童子を斬ります。

そのあと新田義貞に渡ったというのですが、これはまったくの嘘のようです。
とある、嘘くさい神話的逸話集みたいなものに出てくるだけなので。
どうやら頼光の子孫に伝えられ、それが足利将軍家に伝わり、13代義輝が所有したというのが考え得る線でしょう。足利家は源氏だし。
義輝は剣豪としても知られていて、何流かは知りませんが免許皆伝の腕前だったそうです。
次の織田信長ですが、これはどうなんでしょう。
一度、信長は義輝に拝謁していますが、すぐに義輝は謀反にあって殺されているので。
あるいは義輝の弟義昭にもらったのかもしれません。
そのあと豊臣秀吉に伝わっているらしいんですが、一応、所蔵の記録に安綱はあるようですが、童子切かどうかは分からないようです。
秀吉から徳川家康に下賜され、それが家康の子、秀忠に伝わります。
さらに秀忠が甥の松平忠直に与え(このあたりもいろいろと説がある)、紆余曲折の末、その子孫の作州津山松平家に代々受け継がれてきたようです。

そんな頃、またものすごい逸話ができます。
そのころ松平家には、町田長太夫という試し斬りの達人がいました。
それに童子斬りを試させたところ、六人の罪人死体を重ね積みしたものを、なんと一刀両断し、さらに下の土の台まで切りこんでしまったようです。

ガクガク(((( ;゚Д゚))))ブルブル

他にも、この刀を研ごうとすると、研ぎ師の家まで、狐が大行列をなしたとか、この刀が置いてあった屋敷が火事に見舞われたとき、どこからともなく屋敷の屋根に狐が現れ、早く刀を持ち出すように指示したとか、狐に憑かれた子供の枕元にこの刀を置いたところ嘘のように憑き物がとれただとか、狐にまつわる怪しい逸話も多い。


面白い刀なのでつい書きすぎました。
とにかく、童子切、本物見えて感激したってことです。僕は。頭が変になりそうなくらい興奮しました。狐に憑かれてたのかな?


しかしまだもうちょっとつづきまする。
ちょっと休憩。

ではまた。
by jai-guru-deva | 2006-04-29 22:53 | 今日知る芸術
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